数日前から急に歯が疼き出した。
痛いというほどではないが、右の奥歯がスースーというかシクシクというか違和感が起きている。永久歯に生え変わって以降、歯医者には学生の頃に数回行ったきりで、社会人になってからは詰め物がとれた時にお世話になった程度。わりとハードに歯を使ってきたわりにはずっと頑張って応え続けてくれているなーと感謝していた。しかし、知らぬ間に進行するのが虫歯の怖いところだ。疼きが気になりだしてからは、夏場にガリガリ君を食べた時に知覚過敏があったことも思い出してしまった。
学生時代からのゲーム仲間がわりと近場に歯科医を開業しているので、詰め物が取れた時はそこで治療をしてもらった。友人に口の中を診られるというのは、普段のだらしない生活を見透かされるようで案外気恥ずかしくて躊躇した記憶がある。
そんなわけで今日行くのは友人の歯医者ではなく、かねてより注目していた歯科医院だ。
降り立ったのは相鉄本線のさがみ野駅。
郊外私鉄沿線特有ののんびりした空気を漂わせる大きくも小さくもないごくありふれた駅だ。なにか特別な用でもない限りここで降りることはまずなさそう。
北口のロータリーを抜けると市道27号線に出る。さがみ野駅周辺をGoogleマップで見ると一桁から四桁までの数字を持つ“市道◯◯号線”がびっしりと表記されているのがわかる。付近を走る市道26号線を挟んで海老名市と座間市とが分かたれる市境であるため、主に海老名市側が強めに主張しているのだろうか。
さらに数分ほど歩くと見えてきたのが水色の涼し気な看板。どうやらここが今日の目的地らしい。
道路に面している側の大きな窓ガラスには、『診察が終わったらお子さまは院内のゲームで遊べます』と貼られている。
受付で予約してきたことを告げ、問診票への記入を行う。書き終わった問診票はお姉さんに渡してしばらく待機する。なんだか緊張してきたな。
なかなかに広めな待合室。そこにはよく見かける“立体PONG”こと『ATARI TABLE PONG』や毎度おなじみ『マリオカート アーケードグランプリ2』(バンダイナムコゲームス/2007)、その隣に『マリオ&ソニックatリオオリンピック アーケードゲーム』(セガ・インタラクティブ/2016)がデンと置かれている。
今回の展開をだいたい察した方もいると思うが、ここ『マーレ海岸歯科クリニック』は、待合室にゲーム機が置かれているちょっと変わった歯医者さんだ。
マリオ&ソニックの向かいにはArcade1upの『スペースインベーダー』『ギャラガ』の2台。さらに『キッズ屋台村 金魚すくい』(セガ/2008)、『お魚ゲッター』(FDEK/2006)とキッズメダル機があり、その隣にはなんと6ボタンのブラストシティ筐体が鎮座している。格ゲーもできるのだろうか。さらに奥にあるのは大型キッズ体感ゲーム『釣りスピリッツ』(バンダイナムコアミューズメント/2012)だ。こうなってくると雰囲気は完全にショッピングモールのゲームコーナーのようになってくる。
“歯医者+ゲーム”というセットとなると、我々世代としてはすがやみつる先生の名作漫画「ゲームセンターあらし」のあるエピソードを思い出さずにはおれない。
虫歯になってしまった“ゲームセンターあらし”こと石野あらしがしぶしぶ訪れた歯科医院の待合室にはゲーム機が置かれており、診察室の天井の上に作られた壁全面がモニタのゲーム部屋にあらしは囚われてしまう。そこであらしは『平安京エイリアン』でゲーム歯医者と勝負することになるのだ。改造された『平安京エイリアン』には通路を食い荒らす虫歯エイリアンも登場。絶体絶命のピンチを切り抜けるダイナミックな展開をはじめ、全編がアイデアの塊のような一編で、当時は幾度となく読み返した名エピソードだ。
“歯医者”イコール“怖い場所”という子どもが持つ共通認識をさらに増幅した一編ではあるが、「ウチの近所の歯医者にもゲームがあれば喜んで行くのに」などと羨ましく思ったのも事実だ。
こちらのマーレ海岸歯科クリニックはその夢を叶えた場所ということになる。歯の治療や診察をすればゲームは無料で楽しむことができる。きっと歯医者を嫌がる子どもたちもそれならば、とやってくるにちがいない。
もちろん大人だってここのゲームで遊んでも構わないのだが、街にある普通のゲームコーナーと違ってなにやら妙な抵抗感がある。そもそも歯の不調で訪れているので呑気にゲームを楽しむ余裕がない?
いや実のところ、歯医者の予約をとりしばらくしたらいつの間にやら歯は痛くも痒くもない状態に戻ってしまっていた。歳をとるとこういうことが起こりがちで、キャンセルすべきかどうか迷いはしたのだが、せっかくの機会だし歯科検診だけでもしてもらうことにしてやってきたというわけだ。
よって今現在歯が痛くない私は、ゲームをする精神的な余裕はあるはずだ。それでもなんだか気恥ずかしいのは、やはり場所の特殊さ故だろうか。歯の治療にきた白髪混じりのおっさんが大手を振ってゲームができる環境ではない気がする。
手持ち無沙汰で待合室をブラブラするふりをしながら、受付のお姉さんに「なんでここにゲームがあるんですか?」と世間話風の質問をさりげなく投げかけてみる。通り一遍の返事が返ってきたところで「へぇ……じゃこれって遊んでもいいんですか?」と核心へと切り込む。子供だけがプレイOKというわけじゃないんですよーとのことなので、写真撮影の許可をいただいてからすでに電源が入っていたマリオカートを遊んでみることにした。
ハンドルが少々緩めだったりメンテナンスが甘めなのは御愛嬌。しかしやはりいつもよりプレイに集中できていない感じがする。
どうもこの異質な空間でのプレイに戸惑っているというよりは、このすぐ後にはじまる歯科検診のことがずっと心に引っかかっているようなのだ。ゲームはできるだけ心に余裕がある時にプレイしたいということか。
ゲーム機を前にこれまでにない感情を抱いて少し動揺していると、ついに診察室に呼ばれた。
若い男性の先生からの質問に答えて歯を隅々まで診てもらった結果、いくつか軽めの虫歯が発見された。さらには普通ではない方向を向いて歯茎に埋まっている親知らずがあるそうで、先々のことを考えると今のうちに処置をした方が……とのアドバイスをいただく。
しかし、こと歯に関してはおよそ場当たり的に処理してきた身としては、より差し迫った事態に至るまでは“見”の一文字だ。結構な大工事になるかな……などと脅されて(無論そんなつもりはないだろうが)じゃあ手術しますなどと即決できる勇気は持ち合わせていない。ちょっと検討しますとお茶を濁し、今日のところはとりあえず歯石除去をお願いすることにした。百戦錬磨の先生には私のヘナチョコ真意などお見通しだろうが、特に突っ込むでもなくクリーニングの準備を始めている。
人生初の歯石除去は骨の芯まで伝わる強震動に翻弄され、目をつぶっているのにめまいを起こすほどの衝撃だった。
手に汗握る処置も終わってフラフラと待合室に戻ると、さっきまで点いていなかったArcade1upの『ギャラガ』に興じる少年がいた。その表情はどこか青白く、気もそぞろといった様子がうかがえる。ただレバーを動かし、ただボタンを叩いている心ここにあらずの状態。わかるよ。このあとの事が気になってゲームどころじゃないよな。
そんな不安と楽しさがミックスされた世にも不思議な歯医者さんをあとにした。
なんとなくつきまとっていた虫歯への不安がしっかり判明してしまったが、とりあえずスッキリしたし解放されたような安堵感もある。
それと診察室に入ってわかったが、待合室の方が診察室よりよほど広い設計になっていた。それだけ子どもたちの歯科治療に対する恐怖を取り除くための試行錯誤がギュッと詰まっているようにも感じられた。
喉元すぎればなんとやら。
お腹も空いてきたたし、そばでも食べていくかと思い立つ。
目的の蕎麦屋に行く途中、奇妙な形をした建物をみかけてふと見上げてみるとそこには見慣れた“KONAMI”のロゴが。どうやら東京テクニカルセンターというコナミグループ国内主要事業所のひとつらしい。商品の開発から製造、物流の機能も有する大きめの事業所だそう。
まぁ、ここは東京ではなく神奈川県座間市ですけど。
テクニカルセンターの脇を走る東京神奈川を結ぶ大動脈・国道246号線を東に少し歩いたところにあるのが立ち食いそばの『そば処 あさひ』。最寄り駅から歩くと20分程度かかるが、このあたりをビュンビュンと走る物流トラッカーにとっては至便で、安くて旨いそばがいただける。
せっかく歯も治したことだし(治してない)天玉そばとおにぎりいっちゃおう。
店内席の他にもテラス席があり、ニーヨンロクを駆け抜ける大型トラックの砂埃にまみれながらいただくこともできる。それを含めて楽しむのがここの流儀だ。
そういえば、冒頭に出てきた友人がやってる歯科医院の待合室にもゲーム機を導入しろと事あるごとに猛プッシュしているのだがのらりくらりと躱されている。そもそも待合室が狭いのもあるし、当然奥さんのご意向にもしっかり配慮する必要があるのだろう。それに今日わかったがゲームを置くだけでもいろいろな問題点があるようだし、事はそう単純ではなさそうだ。
今日診察してくれた歯医者さんはゲーム好きなのかな。それとも、子供の歯の治療への飽くなき探求から生まれたアイデアにすぎないんだろうか。
ただ、わざわざ県をまたいでやってきた緊急性のなさそうな中年患者の意図はバレていた気がする。どう考えても不審だもの。
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