数々の有名ゲームタイトルに関わり、勢い余って「香港97」にも関わってしまった闇のプログラマー・芦田さん(1968年生まれ)の少年時代を振り返る漆黒のマイコン一代記。
諸般の事情で一部仮名・変名を用いてますが、基本はありのままノンフィクションでございます。
「今の子は恵まれてますよ。プログラムの学校はあるし、ちょっと検索すれば参考書とか資料とか、幾らでもタダのがあるでしょ。 僕らの頃は見て盗むのが当たり前だったから」
『狼は生きろ、豚は死ね』が流行語だった昭和の時代。一流プログラマーを目指す少年たちにとって、ゲームは『遊ぶ』ものではなく、血眼で解析しまくり、プロの技術をパクるための貴重な『教材』だった。
そのためにはまず、ネタ元となるゲームを手に入れる必要があるが、パソコン黎明期の当時でも、ゲームは一本3千円はした。
令和の時代、千円も出せば、そこそこ遊び応えのあるゲームが普通に買えるし、ゲーム内容についても、動画やレビューや先人の評価からほぼ把握できる。
しかしこれが80年代初頭の暗黒時代となると、下手くそなイラストと短いキャッチコピーが唯一の手がかり。ゲームの画面写真も無ければ、宣伝文もふんわりすぎて意味不明。
結局買うまで内容は謎。買ったら買ったでくそみたいなソフトが地雷原のようにひしめいているという、例えは悪いがビニ本、裏本業界に近いものがあった。
当時の小学生は、月2千円。3千円も小遣いがあったら御の字で、私の周りには月500円でやりくりする者もざらにいた。
芦田少年に至っては小遣い0円。それどころか実の親から食料品の万引きを命じられる始末。
ゲームを買う余裕などあるはずもなく、仲間からのコピーで全てを賄っていた。
「カセットテープの時代ですから、借りてきたゲームを駅前のカメラ屋でダビングしまくってました。そこ、店員が無気力で干渉して来ないんで、店のダブルカセットが使い放題だったんですよ」
涙ぐましい努力の結果、芦田少年のコレクションが爆増したかというと、所詮は地方都市の小さなコミュニティ。全てにおいて弾数がなく、割とすぐネタギレになった。
「ちょうどこの頃ですかね、秋葉原はすごいぞ。何でもあるぞって。アライの常連から耳にして。お金も無いのにむちゃくちゃ行きたくなっちゃって……」
翌朝、学校をばっくれた芦田少年は、馴れない電車を乗り継いで東京へ向かい、土地勘もないアキバへと単身乗り込んだ。
時はアマチュア無線全盛期。キョロキョロしながら路地裏をさまよい、数少ないパソコンショップを見て回る。
アキバ巡礼に先立ち、父の財布からわずかな金をくすねていたが、往復の電車賃を差し引くと所持金は残りはわずか数百円。これではゲームどころか昼飯を食う金もない。
「それでも片道2時間近くかけて来てるんで、手ぶらで帰るわけにもいかないし、子供ながら必死に知恵を絞りましたよ」
そんな『背水の陣』から編み出された驚きの奇計。まずは大きめのパソコンショップに入り、客の動きを観察。よさげなゲームを買う同年代の少年が現れるのを待ち、店を出た少年の後をつけて、そっと声をかける。
「立ち止まったら相手に一言も喋らせない勢いで、矢継ぎ早に褒めまくるんです」
当然、相手は戸惑う。走って逃げる奴もいる。それでも折れず、話を聞いてくれる少年が見つかるまで、根性だけでトライ&エラーを繰り返すのだ。
「ゲーム選びのセンスがいいねとか、そいつのパソコンがすごいとか、何でもいいから褒めまくるんです。とにかく後が無いですから、喰い付いたら離さないくらいの勢いでね」
ターゲットには考える隙を与えない。大人の皆さんならお分かりの通り、これ、繁華街の客引きや宗教の勧誘、ナンパにも共通するメソッド。
ナンパと違うのは、パソコン少年の分母が死ぬほど少ないことか。
少なかろうと多かろうと、ここまで来たら「やるしかない」。仲間になってくれそうな者に死に物狂いで声をかけ、『同好の士』をアピールしながら、なんとかして耳を傾けてもらう。で、仲良くなってどうするかというと、買ったばかりのゲームをコピーさせてくれと頼むのだ。
「むちゃくちゃな話だけど、相手は子供で素直ですから、真剣に説得すればしっかり同情してくれて、成功率は悪くないんです」
コピーの交渉より、アキバで店頭ダビング可能な店を探す方が難しく、ときに交渉相手の自宅まで押しかけることもあった。
所詮はダビングだから、コピーするにもむちゃくちゃ時間がかかる。コピー中も話は弾み、本気で仲良くなってしまうケースもあったというが、SNSも携帯電話もメールアドレスも無い時代、そして芦田少年には公衆電話しか発信手段がなく、このとき大勢のマイコン少年と知り合うも、やったことと言えばゲームのコピーくらいで、それ以降、連絡をとることはなかった。
アキバで手に入れた最新ゲームを地元に持ち帰り、皆に一目置かれながら解析を続けていたある日。地元・平塚市の七夕まつりに、世話になっていたマイコンセンターアライの出店が決定。展示品のif800(沖電気)で占いをすることになり、芦田少年のプログラムが採用されることになった。
道路脇にパソコンとプリンタを設置して通行人から小銭をもらい、依頼者の生年月日を入力。乱数で出力した超テキトーな診断結果をプリントして手渡す。というシンプルな出店だが、パソコン占いというジャンルが目新しかったのと、常連の高校生、大学生たちが熱心に客引きをしてくれたこともあって、結果は大盛況。
皆が褒めてくれたことに気を良くした芦田少年は、新しいゲーム作りに没頭。
アキバで培ったコミュニケーションスキルを活かし、わからないこと、できないことはできる人に質問攻め。
結果、プログラム能力は見る見る上達し、あるとき、芦田のゲームを見たマニアのひとりから、意外なオファーを受けることになる。
(つづく)