散歩好きの人には地図好きが多いと言われるが、私も地図を与えられると目を皿のようにして何時間でも見続けることができる。Googleマップさえあれば一生楽しむことができる自信すらある。
その日も、目的に応じたピンがビッシリ打ち込まれたGoogleマップを拡大したり縮小したりしながら次なる散歩の地を模索していた。
ふと東京都大田区の大鳥居駅周辺に目が留まる。ここは長らくセガが本拠地を構えたエリアで、東側には羽田空港、近くを流れる多摩川を渡ればそこはもう神奈川県川崎市という東京の南端である。
そこから西に進むと京急蒲田駅があり、JR京浜東北線と東急線の発着駅である蒲田駅がある。さらにもう少し行ったところにあるのが東急多摩川線の矢口渡駅で、ここはナムコが本社を置いていた地として知られている。
旧セガと旧ナムコの直線距離は約4.5kmほど。あれ? コレ、散歩にちょうどいい距離じゃね? と今ごろになって気づいてしまったのだ。
善は急げと、翌日早速矢口渡駅に降り立った。現在は東急多摩川線という名称だが、2000年まではオールドナムコファンにはアルバム『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』に収録された『リブルラブル』アレンジボーカル曲「目蒲線の女」でお馴染みの目蒲線(めかません)だった。東急電鉄の前身・目黒蒲田電鉄株式会社が目黒-蒲田間に鉄道を通し、目蒲線と呼称したのがそのはじまりだ。その後、目黒線と多摩川線に分割され“目蒲線”という呼び名は消滅したのだが、沿線住民と鉄ちゃん以外でこの事実に気づいている人は案外少ない。正直に言えば、私が知ったのも相当後のことだった。
矢口渡駅舎は一部に木造を残しており、見る者をノスタルジックな気分に誘う。そしてかつてはこの町の代表的な企業であったナムコは、ホーム壁面に矢口渡周辺情報を記した地図広告を掲載していた。パックマンやマッピーなど、ナムコキャラがいる賑やかなイラストで描かれたその地図は、ナムコが街を去った現在は下ろされてしまっている。まずはその跡を眺めてしみじみとした気分を味わってから改札を出る。
駅から西に向かって商店街を抜け、第二京浜国道を渡ると大きなマンションが見えてくる。まだ新しさを感じさせるこのマンションの位置にあったのが、ナムコの旧本社だ。矢口工場だったりクリエイティブセンターだったり、時代によって様々に名称と用途が変わったものの、PS2版『みんな大好き塊魂』のパッケージに採用されるほど親しまれた建物だった。
あらかじめスクショしておいたGoogleストリートビュー・タイムマシン機能での2013年の建物の姿と、現在の様子を見比べてみる。
うむ、間違いない。ここにはかつて、数多くの名作ゲームを生み出した我らがナムコが存在したのだ。果たしてそのことを、現在マンションにお住まいの住民の皆様はご存じだろうか? 中には1人くらい、それと知ってここに住まれている方がいるのではないか、いやいてほしい! などと脳内で静かに叫びつつ、控えめに写真を撮る。あくまで散歩の一環なので、やれることはそれくらいまでだ。
再び第二京浜を渡り、今度は南東方面へと歩みを進める。駅前から続く矢口の渡商店街に合流し、のんびりした雰囲気の街並みもついでに堪能する。このあたりを歩いていて気付くのは、計器、精機、電機、電設、工機といった会社がいたるところにあることだ。大田区にある工場は、従業員が10人未満の工場が全工場の約70%を占めるという。いまでこそ押しも押されぬ大企業に成長したナムコ(バンダイナムコ)もかつては、小さな町工場からスタートしたのだ。なんとも夢のある話だなぁなどと考えながら到着したのは、駅から8分ほどのマンションの前。
ここが、ナムコ営業本部の跡地だ。本社や分室として機能した時期もあり、70年代の代表住所を見るとここが記載されていることが多い、中興期の中枢といえる場所でもあった。こちらも2009年のGoogleストリートビューのスクショと見比べてみよう。
このくらいの規模感だと今は大型マンションを建てるにはちょうどいい立地と敷地面積なんだろうな……とまたもやしんみり。この散歩、どこにモチベーションを設定するかにもよるが、精神的には案外しんどいのかもしれない。
さて、ここから蒲田を突っ切って、大鳥居方面に向かって歩くことになる。矢口渡駅の反対口側をしばらく行ったところに「桜館」という珍しく真っ昼間から営業している銭湯があり、2階に食事ができる休憩室とゲームコーナーもあって最高なんだよな……と一瞬頭をよぎるが、そこに行ってしまったらたぶん今日が終わってしまうので無念の却下。「桜館」についてはまた改めてレポートしようと思い直し、蒲田へと歩き出す。
それにしても今回の「ゲームある紀行」は、ゲームが全然登場しない。跡地巡りなのでそれは想定済みで、一応近辺にゲームネタ転がってなかったかと探してみたがそれらしいものは発見できなかった。しかしもし今回、これが上手くまとめることができれば、“ゲームの跡地”というテーマで散歩ができるかもしれない。そんな少し邪な思いを抱きつつ歩いていると、前方に中華店が見えてきた。そういえばお昼をどうするかをすっかり忘れていた。漠然と蒲田あたりでなにかいい店はなかったかなと考えていたくらいだったので、とりあえず店頭に掲げられた日替わりメニューを見てみる。するとなにかがピンときて、そのまま店内へと吸い込まれていった。
蒲田駅から少し距離がある環八通り沿いにある「ラーメン専科 とらの子」。調べてみたところ昨年一度閉店し、再度オープンしたお店だそう。
ピンときた日替わりメニューの“ソーセージと玉子炒め定食”は、想像した通りのビジュアルで、さっと炒められた玉子とソーセージが絶妙にマッチし、ご飯がグイグイすすむ。並盛りなのに盛りのよいご飯がまた嬉しい。溶き卵のスープは、卵カブリだったかと思ったが、よく見るとトマトの皮を入れることで酸味と味わいをプラスしている。全体にさらっと作ってはいるがさりげない気遣いと技法に思わず唸る。これなら経営が変わって不安だったであろう近所の皆さんも安心だなうむうむ、などと偉そうにうなづきつつ、あっという間に完食。大満足のお昼に精一杯の「ごちそうさま!」を伝えて店を出た。
さらに蒲田駅まで歩き、駅ビルである東急プラザ蒲田のエスカレーターを上がる。最後に階段を上り切ると広々とした、空へのヌケがいい屋上に出た。息を整える代わりにひとつ大きく深呼吸をしてから、名物である屋上観覧車と対面する。
1968年に設置され、長らく蒲田のランドマーク的存在として親しまれてきた観覧車。2014年の東急プラザ蒲田閉店に際して一度は撤去が決まりかけたが、地域住民の熱望もあってか店舗リニューアル後に復活を果たした。ここを管理運営しているのはバンダイナムコで、1フロア下に「namco東急プラザ蒲田店」も営業している。
本社こそ移転してしまったものの、大田区蒲田近辺にナムコのイメージがいまだ強いのはこの観覧車の存在が大きいのかもしれない。百貨店屋上での木馬設置からはじまったナムコの遊戯の歴史と志をずっと伝え続けてほしいと願いつつ、ついでに疲労した足をマッサージしまくった。
次は、蒲田駅構内を抜けて少し離れた場所にある京急蒲田駅を目指そう。ちなみに蒲田駅と京急蒲田駅の間にある朝日ビルディングには、ナムコが入居していた時期もあるようだ。このあたり一帯が旧ナムコのテリトリーなのである。
京急本線をくぐる形で京急蒲田駅を抜けると、頭上高くに京急空港線が東に向かって伸びていく。途中から地上を走ったり、地下に潜ったりしながら京急最東端の駅である羽田空港第1・第2ターミナル駅へと至る路線だ。京急蒲田駅の東側は飲食店など商業施設が少なく、すぐに住宅街に入ってしまう。ブラブラと歩いていくと糀谷駅にこじんまりとした商店街があったり、新興住宅地とは違う年季の入った街並みはどこか下町といった風情を感じさせる。地図を見ると路地に行き止まりが多く見られ、入り組んだ住宅事情も見てとれた。
環八と交差する産業道路に出ると、家具と雑貨のニトリと食料品のサミットが共に入った大きな建物が見える。ここが、かつてのセガ3号館だ。Googleストリートビュー・タイムマシンでは2009年のセガ3号館を見ることができるが、電話ボックス内で電話をする人物も写っている貴重な一枚となっている。
1997年に43億円でセガが買い取り入居する以前は、AKAIブランドで知られた音響・映像機器メーカー赤井電機の本社であったという。バンダイとともに目指した経営統合が破談となった1997年頃、このセガ3号館にはAM1研、AM2研、AM3研という生え抜きのアミューズメント部門が軒を連ねていた。ゲームでいえば『バーチャファイター3』の後あたりだ。
その後、2012年に退去し翌年に建物は解体、商業ビルとして2016年にニトリとして生まれ変わった。つまりここにも当時の面影はまったくない。どうみてもニトリであり、ただのサミットだ。
ただ、注目してほしいのはニトリ入口前の歩道にある電話ボックスだ。
近年すっかり数を減らしている電話ボックスの中のボードには、この地の住所とNTT羽田局の認識番号とともに「セガエンタープライズ前」と書かれている。正しくは“セガ・エンタープライゼス”なのだが、これがこの地にセガ3号館があった唯一の名残なのである。
続いて、大鳥居の交差点を空港方面に曲がりしばらく行ったあたり、ホテル東横INNが2棟並び、その隣にはセガの関係子会社や部署が入居したビルがあった。そしてその隣の現在トヨタレンタカーがある場所には、セガ羽田2号館が存在した。
さらにその隣にあったガラス張りの建物が、セガ旧本社だ。2019年には取り壊され、2023年11月にフランス資本のホテルチェーン・メルキュール東京羽田エアポートが開業したばかりだ。
セガ旧本社とセガ3号館のちょうど中間に位置する銭湯・宝湯の湯船にどっぷりと浸かりながら、今日の行程を振り返る。矢口渡のナムコも、大鳥居のセガもすでにかつての痕跡はほとんど残されておらず、ただ人々の思い出の中にのみ残る存在となっていた。企業はその規模と有り様が目まぐるしく変化し、街もまたそれとともに姿を変えていくのが定めだ。これまでにも何度か訪れていて、そのことはわかっていたのだが、20年という年月は想像以上のスピード感で街を塗り替えていくことを実感した。
地図を改めて見ると、矢口渡と大鳥居は環八を通るとほぼ一直線、車で移動すれば15分以内という近距離だ。ゲーム会社としてはライバルであったが、アミューズメント分野や物流などで業務提携する機会も多かったという両社。日本のゲームが一番熱かった時代を象徴するシリコンバレー的エリアは、蒲田を挟んだこのあたりだったのかもしれない。
家に帰ってきてから、そういえばとアルバムを漁ってみたところ、1枚の写真が出てきた。写っているのはセガ羽田2号館の道路を挟んだ向かい側にあった別館ビルのようだ。上にある2010年のセガ旧本社ビルの写真にも別館ビルが反射して写り込んでいるのがわかる。
この紙焼き写真の日付は1997年4月18日。セガとバンダイが合併を発表したのが1997年1月23日、そして合併を断念したのが同年5月27日。果たされなかった歴史的出来事の渦中の時期にたまたま撮ったこの写真、“どこから”“なんのために”撮ったのかはわからない。大鳥居はまだまだミステリーに満ちている。
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