【リレーブログ特別編(後編)】元MSXマガジン・BEEP!メガドライブライター 戸塚伎一様

リレーブログ特別編、戸塚伎一様にゲームライターになるまでを語っていただいた後編です。(編集部)

前編はこちら

■男子高校生、異世界の創造主となる(すぐに挫折)


 すごくがんばって勉強すれば入れるかもしれない進学校は早々に諦め、普通に試験対策すればまあ入れるでしょうという県立高校に無事進学した私は、初っ端の自己紹介でのアピールの方向性を間違え、“気の弱いオタク”としてイキったクラスメートに認知されてしまいました。実際にはそれほどしおらしい性格ではなかったので「なんで(マイコンBASICマガジン誌にゲームプログラムが掲載されたことのある)俺がこんなことを」とイライラしながら、入学後しばらくはジュースなどの使い走りをしていました。
 それでも私がゲーム好きだというメッセージの本質は、似たような趣味を持つ同級生男子たちにしっかりと伝わっていました。やがて放課後ゲームセンターに連れだって行ったり、朝学校に早く来てがらんとした教室で超高速光線銃ジリオン(当時セガが販売していた玩具)を撃ち合える仲間ができ、イキリメートからの不当な扱いもいつのまにかなくなっていました。
 男女共学にもかかわらず女子と話したり校外で接触した記憶は皆無ですが、ゲーム好きにとっては実に充実した高校生活でした。そこそこ金回りの良い友人宅に毎週末集まってPC-8801mkⅡSRやらセガマークⅢやらの新作ゲームをだらだら遊んだり(※雑誌にプログラムが掲載されたことでセガマークⅢへの逆恨みはもう消えていました)漫画をだらだら読んだり、コンプティークというゲーム雑誌で紹介されていたテーブルトークRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ」なるものを始めてみたりといった時間は中学生以下の時代には得られなかったタイプのもの。ゲームが好きな自分のままその空間にいることを許される安心感のようなものを味わっていました。当時の遊び仲間とは現在もよく連絡をとりあっています……というわけではないところが私の人間力の限界です(笑)。

 ふたたびSC-3000でゲームプログラムを作りマイコンBASICマガジン誌に投稿するようになったのは1988年、高校2年生の時期です。いよいよもって勉強についていけなくなり、大学進学ルートを自主的にドロップアウトしたことで暇な時間ができたこともその理由のひとつですが(おかげで、いまだに“数学の成績が悪いせいで卒業できない”という夢を見ます)、アーケード、PC、コンシューマそれぞれ独自路線で盛り上がる当時のゲーム業界の熱気に浮かされ、「俺もいっちょ」という気になったのが大きいんじゃないかと、今にしてみれば思います。
 高校受験が終わってからプレイした『ドラゴンクエストⅡ』(ファミコン)、リリース時はまるで歯が立たなかったものの低難度ルートの情報を得てから本気で取り組んだ『源平討魔伝』(アーケード)、板金工場のアルバイト代で買った『グラディウス2』(MSX)、雑誌“ゲーメスト”の攻略記事が非常に参考になった『ドラゴンスピリット NEWバージョン』(アーケード)などなど……当時好きだったゲームに共通しているのはBGMが良い、とりわけエンディングBGMが、魅力的な異世界の素晴らしさを再認識させるとともに、そこでの冒険の完遂を全力で称える、荘厳で心揺さぶるメロディの名曲揃いでした。「たまたまそういう年頃で聴いたから印象に残っているだけであって“名曲”などと軽々しく口にしないでほしい」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも前述したゲームのエンディングBGMはどれも本当に名曲です(念押し)。


 そういうわけで意気込み新たに作るゲームは、中学生時代に作った断片的シチュエーションのミニゲーム路線ではなく、ちゃんと“異世界然”としたものである必要がありました。まずはマイコンBASICマガジン誌にプログラムが掲載されていた他機種用の対戦型ボクシングゲームの移植作を、LEVELⅢ BASIC用ゲームとして投稿しました。選手グラフィックを当時観ていたテレビアニメに登場するモビルスーツにし(16×16ピクセルで)、見た目と性能のバリエーションを複数用意して操作キャラ選択制にし、そのアニメの主題歌名の英語表記をタイトルにしたその作品は見事マイコンBASICマガジン誌に掲載されました。しかもその掲載号がたまたま対象になっていた投稿ゲームの人気投票企画で、全体の5位という栄誉に授かりました。結果発表ページの寸評で「SC-3000というマイナーな機種のゲームでもいいものは評価される」みたいなことが書かれていて、当初は誇らしげな気持ちでした。

 しかしよくよく考えてみると、いつのまにか掲載枠が1つになり辛うじて残っているといった状態のSC-3000のゲームを打ち込んで遊んだ人が多いはずがなく、仮に遊ばれたとしても、防御やジャンプなどのアクションがなく、CPUキャラのアルゴリズムを組めないから2人対戦専用、という低クオリティなゲームが高評価されるはずがありません。このゲームが得票を集めた理由は“実際にプレイしていないけど、多くの人が知っているアニメを題材にしていて、その登場モビルスーツが当たらずとも遠からずなグラフィックで再現されていたから、何となく”だったのだ……という真実(?)に気づいてしまった私は、わずかな落胆とともに、「オフィシャルに評価されるコンテンツのポイントの押さえ方」を学んだような気がします。まあこの時点ではただのパ◎リですが。
 ▲投稿したゲームが掲載された、マイコンBASICマガジン誌のページのコピー。タイトル下の作者名は、当時使っていた投稿用ネームです。

 こうして1988年に作った四本のゲームは、すべて同誌に掲載されました。より新しく高機能なハードに乗り換えることなくSC-3000というレガシーを使い続けたことで、掲載枠を競い合うライバル投稿者が減っていたことも“高打率”の要因だったのでしょう。

※4本のうちの1本はLEVELⅡ BASIC用ゲームでした。しかしこれも当時観ていたSFアニメをモチーフにした内容で、ゲームタイトルをエンディングテーマのタイトル名と同じにしたり、キャラクター定義で再現した、アニメの登場キャラっぽいものが表示されるエンディングデモ(?)を用意したりと、ゲームルールのアイデアやプログラム技術とは異なる部分を重視したものでした。そんなものでも採用されたのは、選者がそういうタイプの作品が好きな方だったのかもしれません。

「マイコンBASICマガジン誌でできることはもうない」と悟った私は、新元号・平成の訪れとともにゲームプログラマー活動をひっとりと終えました……ということにしておきたかったのですが、実際はSC-3000用プログラムの掲載枠が消滅した(不定期扱いになった)ことと、頭の悪さ&根気のなさのせいでより高度なプログラム技術を身に着けられず、プログラマーとして頭打ちになったことによる“脱落”でした。
 どこかのタイミングで、ゲームを自作している同級生と出会ってでもいれば、チーム制作などまた違った形での続け方があったかもしれません。少なくとも身近な範囲では誰も名乗り出はしませんでした。“ゲームはひとりで作るもの”という思春期の実体験に根差した呪いは、その後四半世紀近く私の思考と行動を支配し続けることになりますが、それはまた別の話。


■それでもゲームの道を進む


 ゲームプログラマーの道を諦めた私は、並行していたゲームネタ4コマ漫画の制作や、『信長の野望 全・国・版』『マスターオブモンスターズ』(いずれもMSX2版)といった延々だらだらと遊べるシミュレーションゲームのプレイに、ますます傾倒していきました。高校3年生になった時点ですでに大学受験する意思(学力)はなく、かといって刺激も何もない地元にずっといたいとも思っていなかったので、当時の愛読書であり、4コマ漫画も何度か誌面に掲載され、編集者から電話で「うちで働かない?」と軽いノリで誘われていたMSXマガジン誌の編集部にアルバイト入社することを、卒業後の進路としてわりと早い段階で固めました。1980年代、ゲーム雑誌はゲームファンにとって重要な情報源であり、時おり誌面で明かされる編集部の様子を見ては、あれこれ想像をたくましくしたものです。そして、その中に自分も加われたら楽しいだろうな……と素直に思えたのが、当時のMSXマガジン誌だったのです。

※読者の立場から感じた、編集部の雰囲気の良さに関しては、長らく愛読書だったマイコンBASICマガジン誌よりも、1988年にリニューアルしてからのMSXマガジンの方が数段上でした。その雑誌のムードが顕著にあらわれるのは文章・イラスト系の読者投稿ページで、たとえば前者は“投稿者もコーナー担当者もガチすぎてちょっとこわい”、後者は“あまりにバカバカしい上に軽やか”という印象でした。

 とはいえ本当にできるかどうかわからないバイトのために東京で一人暮らしを始めるのはいろいろ筋が通らないと思ったので、自分が将来やりたいこと(雑誌編集業務)を教えていて、かつ都内にある専門学校を進路資料から探し出し、そこに進学するという体で上京する意思を親に告げました。すでに離婚し、子の放任ぶりに拍車がかかっていた父は「好きなようにしなさい」と背中を押してくれました。高校入学の時に借りた奨学金は自分で返していけよ、との言葉を添えて。日に日に“現役受験生”っぽくなり、会話や行動の接点がなくなっていく同級生たちを尻目にゲームを遊び、漫画を描いて過ごした1年間は、一抹の寂しさを感じつつも、これまでの人生の中でもっとものんびりしたひとときだった気がします。

※※※

 異世界としてのテレビゲームに魅せられ、自分自身で異世界を作ろうと奮闘し、挫折。しかしテレビゲームと関わる道に進みたいということでゲーム雑誌業界に進んだ……というのがゲームライターとしての私の“前史”です。その場その場の思い込みでただ突っ走っていたようで、いま現在にも通じる物事の考え方、価値基準をしっかり身につけていたように思います。今回このような文章をまとめる機会をいただき、時間をかけて回顧したことで、2000年頃に出した著書「ふり向けばセガがいる」で書いた同時期のエピソードがかなりいい加減だったことがわかり、とっくに絶版になっていて良かったと胸をなでおろしています。
 ゲーム雑誌業界に入ってからの思い出は、自分や主要人物を美少女キャラに置き換えた実録風物語としてまとめられるよう、いまのうちからネタを洗い直しておこうと思います。

よろしければシェアお願いします!

PAGE TOP