『エグゼド エグゼス』のお手伝い
ある日、カプコン岡本さんから「自分(私のこと)は、ゲームの企画はないの」と聞かれたので、思い切って「二人同時プレイができるシューティングゲーム」と答えました。岡本さんはしばらく考えて「わかった、…やってみるか」と。しばらくしてから、開発分室に遊びに行くと二人同時プレイ可能のシューティングゲーム企画書のドラフトが出来ていました。それを読んで非常に嬉しくて舞い上がってしまいました。しばらくは色々なアイディアを書き留めては岡本さんに見せていました。
本企画書が完成してからは、早かったように思います。数週間後には実際にプレイできるようなプロトタイプが出来ていました。ゲーム名は『エグゼド エグゼス』。さらに開発は急ピッチで進められ、1985年の冬には新宿西口のゲームセンターでロケテストを行います。
ここで、ある大きな失敗に気づきます。ロケテストバージョンでは、敵の弾をこちらの弾で相殺できるシステムを取っていたのですが、ボタンをこする連射をすると、かなり難易度が下がってしまうのです。
このままでは一般の多くの人はそこまでの連射ができないので難易度は少し高め、連射ができるゲームマニアには難易度が低めになってしまいます。そこで、苦肉の策でしたが弾の相殺システムは諦めて、代わりに回数制限で敵の弾を消せるメガクラッシュを急遽入れて、ボタンも一つ増やしました。しかしながら『エグゼド エグゼス』は更なる難題に直面します。それが『ツインビー』です。
『ツインビー』を最初に見たのは、『プレイシティ キャロット新宿店』のロケテストです。実は、ある情報筋からコナミが二人同時プレイ可能のシューティングゲームを作っているという情報は得ていました。それでも『ツインビー』を見たショックは絶対に忘れられません。パステル調で愛嬌のあるキャラ、軽快なBGM、ベルでパワーアップする斬新なシステム、合体攻撃とどれも素晴らしいものでした。正直、「負けた」と思いました。二人同時プレイ可能のシューティングゲームという同じコンセプトで、ここまで完成度が高いゲームを見せられて、とてつもなく落ち込みました。
NAOアミューズメントエキスポ85(アーケードゲームの見本市)では、二人同時プレイ可能のシューティングゲームが、『エグゼド エグゼス』(カプコン)、『ツインビー』(コナミ)、参考出展『ハル21』(SNK)の3作がぶつかり合うという結果になりました。
『エグゼド エグゼス』は結果としては、販売実績はそれほど悪くなかったと聞いています。『ツインビー』より販売が少しだけ早かったことや『ツインビー』のベルによるパワーアップシステムが少し難しくて、オーソドックスなゲーム性の『エグゼド エグゼス』が好まれたのかもしれません。
余談ではありますが、『エグゼド エグゼス』の日本語設定のデフォルトスコアネームの1位に私の名前が入っています。英語設定のスコアネームには“Hill Book”= “岡(丘) 本”が入っています。
『アフターバーナー』小冊子のお手伝い
1987年の5月末だったと思います。突然、セガの鈴木裕さんから電話がかかってきました。「手伝って欲しい仕事がある」と、急ぎの様子だったので私はすぐさまセガへ行きました。当時、裕さんの開発部は“スタジオ128” (後のAM2研)と呼ばれていました(ゲームスタート時の離陸する空母に“128”と表示されているのはその名残り)。仕事内容は開発中のアーケードゲーム『アフターバーナー』の小冊子(オペレーターやゲームセンターで配る解説本)を作って欲しいとのことでした。
『アフターバーナー』の開発はまさに最終局面でした。スピード調整用のスロットルレバーが付いた試作筐体で、裕さんはステージ構成を調整している段階でした。小冊子のために『アフターバーナー』をプレイすると、裕さんにいくつか質問をされました。スロットルレバーの必要性やBGMの順番、敵機のロックオンのタイミング等についてだと記憶しています。
感じたままを、素直に答えると裕さんは「やっぱり、そうだよな」と言いながら考え事をしていました。私は家に戻って早速、小冊子構成を作り、再び持っていきました。導入部に簡単なストーリーを入れたので、世界観や設定を聞くと、勝手に作って良いということだったので、ストーリーを作り、OKをもらいました。
小冊子の締め切りまでの時間は極端に短く、初めて『アフターバーナー』を見てから、1週間以内には入稿していたと記憶しています。おそらく色々な事情で発売日が決まっていたのでしょう。『アフターバーナー』発売からわずか4か月弱でスロットルレバーがついて(発売された『アフターバーナー』にはスロットルレバーはついていなかった)、様々な調整が施された『アフターバーナーⅡ』にバージョンアップされます。
ついにファミコンに!
ライターの話に戻します。『ベーマガ』で記事を書いている時に、何度が他の雑誌で寄稿しないかと誘われることがありました。アーケードゲーム記事は『ベーマガ』への恩義があった手前、断っていました。また当時ファミコンブームが押し寄せてきて、ファミコンゲームのライターの誘いも多くありましたが、“アーケードゲームが最高峰”という拗らせ思想が、それも断らせていました。
そんなある日、カプコンの岡本さんから「知り合いがファミコンのライターを探している。自分、やってみない?」と誘われました。他でもない岡本さんの誘いということ、世間のファミコンブームが気になりだしたということもあり、引き受けることにしました。これが『ファミコン必勝本』に携わることのきっかけです。
1985年の年末、JICC出版局(現・宝島社)を訪ねました。編集部に通され、対応してもらったのは、平林久和さん(通称:ヒラ坊)でした。とても礼儀正しい印象を感じました。年齢は近いですが、年下でライターの私に対しての対応も丁寧なものでした。「ゲームについて教えて欲しい」と言われたので、アーケードゲームの話を少ししましたが、真剣に聞いてくれている様子がよく理解できました。
『ファミコン必勝本』は1986年3月に創刊が決まっているので、それを手伝ってほしいという内容でした。「私は今までファミコン記事を書いたことはない。そもそもファミコンさえ持っていないけど大丈夫かと」尋ねると大丈夫だと。編集部からのお願いは、今回の記事は編集プロダクションのレッカ社を通して書いて欲しいとのことでした。それからしばらくして、自宅に荷物が届きました、新品のファミコンとまだ発売前のディスクシステムでした。
私が担当する初めてのビデオゲームは『ゼルダの伝説』!! まずは『ゼルダの伝説』をプレイしてみると、これが滅茶苦茶面白かったです。アーケードゲームにもPCゲームにもないテイストのアクションRPGで夢中になって寝る間を惜しんでプレイしました。ゲームをプレイしている間に書き留めた資料と共に、編集プロダクションのレッカ社を訪ねました。
レッカ社担当者の中田さんに対して「この『ゼルダの伝説』滅茶苦茶面白いゲームですよ。大ヒット間違いなしです」というと、ニヤリとして「『ファミコン必勝本』創刊号の巻頭で大特集を組むから、よろしく」と言われました。ファミコンライターのスタートです。
素晴らしきゲームライター
『ファミコン必勝本』でも相変わらず、好き勝手やらせてもらいました。レッカ社経由はすぐになくなり、編集部直との仕事のみになりました。ビデオゲームといえ、好きでもないゲームは解説もレビューも書きませんでした。自分でプレイして納得のいったビデオゲームだけを扱わせてもらったのです。また、編集部でキャラゲーム(アニメ化等、メディア化されているゲームのこと)はゲーム内容が雑で酷いと愚痴を言うと、「それを記事で読者に伝えて」と言われて、実際にその記事が雑誌に載ったりと割と色々アリの編集部でした。
子供向け雑誌なので、分かりやすい表現は求められましたが、内容はかなり高度なものでもNGがでた記憶はありません。面白いのかつまらないのか、伝える意味があるのかないのか、そこが掲載基準であったようです。『ベーマガ』編集部も楽しかったけど、『ファミコン必勝本』編集部も最高に楽しかったです
ライター同士の交流も楽しかったです。バラリス中野さんやタイレル辻さん等と編集部で一緒になることがよくありました。田尻智さんともゲームセンターでは時々顔を合わせていたのですが、話すようになったのは『ファミコン必勝本』編集部でお会いしてからです。アーケードゲームであっても、ビデオゲームであってもゲーム対する真摯な態度が印象的でした。制作しているゲームについて話してくれたことを覚えています。
ライターの中でも、スタジオベントスタッフのメンバーを除けば、特に仲が良かったは成澤大輔さんです。お酒を飲みながら、よくゲーム談議を戦わせていました。乱暴なことを言う人という印象を持たれがちですが、ゲームへの深い愛に裏打ちされていました。成澤さんのゲーム選眼力は鋭く信用していました。そのため拙著『チャレンジ!PC Engineのすべて』(電波新聞社)においても巻末のPCエンジンゲームカタログを山下章氏やうる星あんず氏、手塚一郎氏等と共に採点してもらっています。
『ファミコン必勝本』では紹介記事や攻略記事を書きながら、攻略本の制作もしていました。およそ月1ぐらいのペースで攻略本を書いていました。さらに創刊半年後には、『ファミコン必勝本』本誌も月2回刊となり、『ベーマガ』の仕事、大学の授業などで多忙を極めた状態でした。
さすがに『ファミコン必勝本』の仕事が全然回らなくなり、これでは申し訳ないと思い、平林さんからの要請もあって、助っ人をお願いすることになりました。1987年初頭の頃です。『ファミコン必勝本』編集部と雰囲気が合うのは誰がいいかなと考え、『ベーマガ』で仕事をしていた彼に誘いをかけました。TOMMY氏(後のベニー松山氏)です。
彼も『ベーマガ』編集部に気を遣ったようで、ペンネームをベニー松山と変えて記事を書き始めました。後に紹介した平林さんが担当となってベニー松山氏が執筆した名作小説『隣り合わせの灰と青春』の連載が始まるのは、皆さんの知るところだと思います。
さらに大学4年になり、理工学部だった私は研究室に所属しての卒業研究が始まり、就職活動もスタートしたので、『ファミコン必勝本』編集部にはスタジオベントスタッフ(山下章さん、手塚一郎氏、佐久間亮介氏等)を紹介して、仕事量をセーブするようにしました。
その後、結局私は就職せずに、米国のミシガン州立大学の大学院に留学することにします。留学中、学費が足りなくなって、日本に戻ってきては『チャレンジ!PC Engineのすべて』(電波新聞社)等の攻略本を作ったり、現地取材として、任天堂とソニーのプレイステーションが発表されるとされたCES取材(結局、任天堂はオランダのフィリップスと提携する)に行ったり、山下章さんとCESのゲーム取材をしたり、時々ゲームライターとしての仕事はさせてもらっていました。
大学院卒業後にひょんなことから講談社に入社して(長いので割愛)、週刊少年マガジン編集部に配属され、漫画編集がスタートします。
打倒少年ジャンプを掲げ、週刊少年マガジンでもビデオゲーム記事を立ち上げ、再びゲームを仕事にしたり、ゲームクリエイター列伝『〇〇を創った男達』シリーズという漫画を立ち上げたり、オープンワールドの祖とされる、あのゲームのプロデューサーを頼まれたり、これから編集者としての話が始まるのですが、それは、またいつかどこかで。
最後まで長い文章にお付き合いして頂き、ありがとうございました。
自己紹介
響あきら(本名:池田雅行)
1965年、東京生まれ。『マイコンBASICマガジン』、『ファミコン必勝本』のライター。講談社に入社後『週刊少年マガジン』、『コミックボンボン』、『Kiss』で漫画編集者。