みなさん、こんにちは! ゲームライター/編集者の安部理一郎です。前回ご担当の保坂さんに呼ばれて安請け合いしてみたものの、バックナンバーを見ると、あまりにもおっそろしい黄金聖闘士揃いで足が震えます! 実際、最年少のようですし……(とはいえ40半ばです)。青銅聖闘士で恐縮です!
僕がゲーム雑誌業界(個人的に、敬意を込めてゲーム業界とは区別しております)に足を踏み入れたのはいまから27年前の冬、『マイコンBASICマガジン』の編集部でした。
当時は採用なんかも牧歌的な時代で、なかなか返信が来ないものでした。夏にお呼ばれして、開発中の『バーチャファイター』(初代)を見せてもらいに、当時大鳥居にあったセガにお邪魔したのが最初のミッション。このときは見に行っただけなので、仕事ではありませんでした。以後、半年近く待機したのち、冬になってようやくお呼びがかかり、初めて取材したのはワンダーエッグの『ミラーナの心理迷宮』。ゲームソフトの記事を書いたのは『マッスルボマーDUO』といった時代から、僕のゲームライター人生が始まりました。このコーナーの趣旨として、ライターになる前の話をするのが基本のようなので、今回は幼少のころのゲームに関する思い出話をしようと思います。
【プロフィール】有限会社スプロケ代表取締役、ライター、編集者、bar 16SHOTSオーナー。昭和49年生まれ、大分県育ち。1993年よりアーケードゲームライターとして『マイコンBASICマガジン』にて活動開始。以後、『ゲーム遊Ⅱ』『電撃PCエンジン』『電撃SEGA SATURN』『攻略の帝王』『じゅげむ』などに関わりつつ、対戦格闘ゲームの攻略本『ALL ABOUT』シリーズや、単体のゲーム攻略本などを編集、執筆。2000年ごろから『コナミマガジン』の編集統括を休刊まで担当する一方で、『PDA Magazine』や『デジタルチョイス』などのデジモノも扱う。2000年代後半からは『LEGEND OF GAME MUSIC 2』『東亜プランシューティングクロニクル』『テクモアーケードクロニクル』など、サウンドトラックのブックレットデザインと編集にも関わる。2006年、新宿にビデオゲームバー16SHOTSをオープン(現在も営業中)、2011年、同店5周年イベントにてBLIND SPOT(ほぼS.S.T.BAND)復活ライブをお願いする。翌2012年、成田で初のゲーム音楽野外フェス『音撃』をプロデュース。2013年、ドラマ『ノーコン・キッド』および関連イベントのゲーム部分ディレクションと調達を担当。最近はゲームの解説書や同梱ブックレットなどを制作している。最新作は『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』特装版に同梱の『スペースインベーダー公式資料集』。
目次
1982年・第二次マイコンブーム到来。住宅街にマイコンショップ爆誕
ファミコン登場前夜の1982年の「ぼく」は、まだ今ほどゲームに浸食されておらず、放課後は公園で缶蹴り、そうじゃないときは仲間内で流行っていたマンガのようなものを書いて回し読みをしていた小学2年生でした。
とはいえ、ゲームとの第一次接近遭遇はすでに果たしており、自宅にはいつ買ってきたかわからない『カラーテレビゲーム15』(任天堂)があったり、いくつかLCDゲームやFL管のゲームが家にあったりはしていました。
少し戻って、ゲームをゲームとして認識した初期の記憶では、親戚の家でゲーム&ウオッチ『ボール』を見てなんとなくこれは凄いモノではないのか、とか、親戚のお姉さんに連れられていったボウリング場で、ボウリングの球がまだ重すぎて「こっちで遊んでなさい」と案内されたゲームコーナーで『ニューラリーX』(ナムコ)、『インディアンバトル』(タイトー)に衝撃を受けてみたり(主に音楽が鳴ってる! という部分でした)。あとは近所の喫茶店に置いてあった『パックマン』(ナムコ)、『クレイジーコング』(ファルコン)、『クレイジークライマー』(ニチブツ)に興味を示しました。どうして興味を示したかと言えば、やっぱり『コロコロコミック』に掲載されていた『ゲームセンターあらし』の影響でしょう。
もともとは『ドラえもん』読みたさで買い始めた『コロコロコミック』でしたが(当時は隔月刊で、表紙もドラえもんよりウルトラマン推しでしたね)、同じ時期に掲載されていた『ゲームセンターあらし』に心奪われた方、このコーナーの読者なら多いと思います。
そんななか、突如として『ゲームセンターあらし』のキャラクターが登場する単行本『こんにちはマイコン』が発売されます。1982年の11月だそうです。この本を読んで得た知識としては「マイコンがあればゲームが無制限に遊べる!」でした。
不思議なことに、この本の発売と前後して、自宅から600mのところにマイコンショップが突如出現します。相当なマイコンブームだったのでしょう。周りには家しかない住宅地ながら、20坪ほどの店内には、『こんにちはマイコン』で見たPC-6001をはじめ、PC-8801、X1初代、ベーシックマスターL3、MZ-700、ベーシックマスターJr.などがデモ機として置かれていて、ゲームが遊び放題でした(とはいえ、貸し出し用のカセットテープは限定されています)。突如現れた夢のような空間に、ぼくは「通う」ことを覚えました。
おそらくほぼ毎日通っていたマイコンショップは、10歳以上年上のお兄さん方と知りあいになったり、まったく違う学校の子と友だちになったりしつつ、最新のテクノロジーに触れられる場所でした。そうしてマイコンに触っていると、当然マイコンそのものが欲しくなります。人生初の、大きなおねだりを両親にすることになるのです。「PC-6001が欲しい!」「いままでのお年玉使って無いからそれで買わせて!」と。
うちの父親は当時30代で新しいモノ好き。おそらく新しいものに興味があったのでしょう、意外とあっさり許可が下り、マイコンの購入が決まります。しかし、ショップによるとPC-6001は人気機種で3か月待ちだとか。小学2年生にとって、3か月は果てしない時間(とき)です。待てるわけがありませんでした。
「こっちの機種なら、すぐにお持ちできますよ?」と、提案されたのは、ズラリと並ぶベーシックマスターJr.でした。当時のぼくにそんな判断能力はありません。「じゃあそれで!」と即決し、クリスマスプレゼントとして、ぼくの部屋にはじめてのマイコンが来ることになりました。寒い部屋の隅、マイコンが届いた日の光景はいまでも思い出せます。
不人気機種を買ってしまった人のマイコン・ライフ
よく考えると、そのショップは誇らしく「HITACHI」のロゴを掲げていました。日立の特約店だったわけで、そりゃベーシックマスターを売ろうとするわけです。購入時に付いてきた10本ほどのゲームソフトは見たことがないようなソフトばかり。そこそこ面白いものもあったのですが、すぐに飽きてしまいました。『こんにちはマイコン』に掲載されていたようなゲームは遊べず、ぼくの思い描いていたマイコン・ライフは少し違うものになりつつありました。そんな状況で途方に暮れていたところ、マイコンショップで知り合った近所の高校生・Hさんが「キミにはこれをあげよう。もう僕には必要がないものだから」といって、創刊間もない『ベーマガ』をどっさり渡してくれたのです。
このページをご覧の方には説明不要でしょうが、そこにはさまざまな機種のゲーム・プログラムがたくさん掲載されていました。ソフト不足に悩まされていた、我が愛機ベーシックマスターJr.も、安定して毎月2本のゲームが供給されていたのでした。
毎月打ち込んでいるうちに、BASICのベの字ぐらいはわかるようになってきたし、常連投稿者の存在に気づきます。とりわけ、森巧尚さんが作るゲームはキャラクターグラフィックのセンスがすばらしく、子供心に強く訴えるものがありました。
80年代パソコン少年の多くが志し、そして挫折したように、ぼくもゲームプログラマーになりたい! と思うのでした。しかしその後ファミコンが登場し、次第にベーシックマスターは触らなくなり、使わないなら、ということで親が知りあいに譲ったところ、近所のリサイクルショップで売られているのを目撃してしまう、という哀しい末路を歩ませてしまいました。
ベーシックマスターが教えてくれたパソコン雑誌の世界
しかしベーシックマスターがパソコンの世界の扉を開いてくれたことは間違いなく、さらにそこでベーマガと出会い、パソコン雑誌というものを知ることになります。
ゲーム雑誌が生まれ始めるのは、『コンプティーク』や『テクノポリス』『ログイン』が登場する82~83年ごろからでしょうか。しかし83年はファミコンも出たばかりで、ゲーム雑誌というよりは、パソコン雑誌という趣のほうが強かったように思います。同じ時期に登場したアーケードゲーム雑誌『アミューズメントライフ』は、地元大分ではあまり売ってなかったように思えます。
その後、『Beep』が84年、『ファミマガ』が85年。そして迎える86年、『ファミコン必勝本』『マル勝ファミコン』『ファミコン通信』、さらには『ゲーメスト』などがつぎつぎと創刊され、ゲーム雑誌というジャンルで書店の棚の一角を占拠できるほどになりました。もちろん、ほぼ全部の雑誌に目を通しておりました。
このころ、わら半紙を使ってゲームの同人誌のようなものを作り、コピーして50円ぐらいで友だちに売りつけていました(当時小6)。表4はファミマガから切り貼りしたゼルダの伝説の広告(自作)も付けたりして、なあんだ、30年強やってること変わってないじゃん……。現物が残っていないのが残念です。
たびのしたくを ととのえるがよい。
その後、中学受験をし、進学校に進み、ご褒美にPC-8801FHを買ってもらったり、電車通学になってゲーセン通いが始まったり、パソコンソフトのレンタルショップの終焉を見届けたりしながら大学受験を迎えます。受験を翌年に控えた高校2年生のときに、X68000SUPER HD(49万8000円)がどうしても欲しくて、ベーマガの1色ページに掲載されていた80回払い(これだと月7000円ぐらいになるのです)のローンを親に申請して蹴られたりしながら、なんとか東京の私立大学に合格します。
このとき、祖母からの合格祝いとして、また「最後のお年玉じゃ!」とのコメントつきで、現金で100万円を頂きました。こうしてみると恵まれたパソコン人生のようですが、いいところしか書いていないのでそう見えるのかと思います。
上京したての1993年3月下旬、大学の紹介で見つけたボロアパート。RPGの主人公のように、少々多めの軍資金を得たぼくは、タンスとかの家財道具は後回しで、秋葉原に向かいます。
ここでずっと欲しかったパソコンを一気に購入します。中古のX68000EXPERTと、新品処分品のPC-486GF、それから3モードのモニタとして中古のPC-TV455。それぞれ10万ずつぐらいしたと思いますが、2日で買ってやりました! 当時の配送はいまのように翌日届いたりせず、ショップの都合で1週間とか平気でかかっていました。そんなに待てない! ので、68とモニタは2日に分けて夕方のラッシュの総武線で持って帰りました。
68と最新の98を手に入れ、万全の体制で臨んだ新生活ですが、ここで痛恨のミスをしていることに気づきます。
なんと、学科を間違えて入学してしまったのです。願書をよく読まずに「滑り止めの学校だからパソコンの学科でラクをしよう」と、適当にマルを付けたのですが、その学科は回路設計の学科で、パソコンがメインの学科は別の学科だったのです。
転科を申し出ると、「受験やりなおしですね」と言われてしまいます。そもそも浪人が無理だからこの学校に来ているのに、話になりません!
しかし、これまで自分につぎ込まれた教育費を考えると、とてもそんなことは両親に言い出せません。とりあえず手に職をつけなくては……と考え、パラパラとめくっていた『マイコンBASICマガジン』に掲載されていたライター募集の記事。僕の直接の師匠ポジションとなるやんまさん(山下信行さん)が、大学卒業で就職してしまうので、後継者を募集します、とのことでした。
大学も理系だし、文章を書く仕事にそれほど興味はなかったのですが、ゲームの知識ならまずまず戦えるのではないか? ということと、この仕事ならたくさんの人に会うだろうから、知りあいが増やせるぞ……と思い、サンプル原稿を手に編集部の門を叩いたのでした。
その後、手探りの連続ながら、27年間この仕事を続けてこられたのは、これまで出会った方々のおかげです。
ベーマガイベントでつながる思い
古巣のベーマガでは、2015年に初の読者参加型イベント『ALL ABOUT マイコンBASICマガジン』を開催しました。安部は運営スタッフとして参加させていただいたのですが、このとき、スタープログラマーセクションの登壇者があの森巧尚さんでした! 1982年から数えて、実に32年越しにお会いすることができたのです。
一方、このイベントのために、ぼくはヤフオクでベーシックマスターJr.を買い戻すことになりました。こちらも30年ぶりのマイ・ファーストパソコン。もう手放すことはないでしょう。イベント本編でのお役目を終えて、打ち上げ会場で森さんにサインをいただきつつ、当時たくさん遊んでいたことを伝えることができました。
イベント開催当時の森さんのFacebookから一部引用します。「30年前のベーマガは夢じゃなかったんだ!」「学生生活の合間を見つけては必死に作っていたゲーム。それを投函した先はどうなったかわからなかったが、編集部の方々が雑誌として完成させてくれていた」「30年間知らなかった自分の半生が戻ってきたような気持ちになりました」との書き込み。そう、当時はいまのようにユーザーが感想を伝えることもできず、掲載されて原稿料が送られてくるのみでした。それでも森さんはひたすらプログラムを作り続け、編集部はそれを掲載し雑誌として送り出す。雑誌という形で、その思いはちゃんと田舎に住んでいたぼくの手元に届いていたのです。
先日、電撃PlayStationの定期刊行終了が宣言されましたが、これで定期刊行物の純粋なゲーム雑誌はファミ通とニンテンドードリーム、それから電撃nintendoの3誌のみとなってしまいました。今後、ゲーム雑誌が再び盛り返して、月に30冊出るということは残念ながらないでしょう。雑誌という媒体自体はゼロにはならないでしょうが、1983年から立ち上がったゲーム雑誌の歴史は、残念ながら閉じつつあります。
それでもぼくは、いろいろな形でゲーム雑誌から受け継いだ「素敵なものを伝える」という仕事を続けて行きたいと思っております。
最後に宣伝めいた感じになってしまって恐縮ですが、2006年から営業しているbar 16SHOTSもそうですし、2016年に創刊した「ゲーム雑誌が取り上げないぐらいニッチな話しかしないゲーム同人誌」の『GAMETRIBES』(注)も、僕なりの「素敵なものの伝えかた」のつもりで運営しています。どちらもメディアなんです。雑誌という入れ物はなくなるかもしれませんが、そのスピリッツはこれからも形を変えて続いていくことでしょう。
注:『GAMETRIBES』はBEEPさんの通販や店頭でご購入いただけます! 品切れの際は16SHOTS店頭または16SHOTSの通販へどうぞ!!