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【第10回リレーブログ(前編)】保坂ぽぽなす
<プロフィール>
保坂ぽぽなす 1969年横浜生まれ
情報系専門学校を卒業後、出版の世界へ。MAC+,HyperLib,MAC POWERなど主にMac系の雑誌編集部を経てフリーのライターに。「Illustratorの王様」など、書籍を執筆する傍ら、イラストレーター、WEBデザイナーとしても活動する。
<プロローグ>
ある日の夜、アキバの某飲み屋でBEEPのMさんと、某研究所のMさんとで飲んでいたとき、たまたま出版社時代の話をしたところ“面白いので記事書いてください”と言われ、ほいほいと二つ返事で書きました。
無名のおっさんの一人語りが面白いかなぁと疑問に思いつつも“マスコミ側から書いた当時のパソコン事情ってのも読んだことないな”と思い、何かしらの記録に残しておくのもいいかもしれないと、この度誌面を預かる事になった次第です。
最初に勤めた出版社がMacintoshの専門誌を扱っていた関係で、その後の人生もMac抜きでは語れないほど、ドハマリしました。
Macintoshと出版の関係を黎明期から見続けてきた一人として、何か後世に伝え残すことができれば幸いです。
■城みちるもどきの紹介で出版業界へ
始まりは高校を卒業し、新しい学校にも慣れてきた1987年頃の話である。
高校の入学祝いに買ってもらった自宅のPC-8801mkIIはすでに旬の盛りを過ぎ、ロートルマシンと化していた。
前年に発表されたPC-8801mkIISRのFM音源とアナログRGBに歯茎から血が出るほどの嫉妬心を抱きつつも、買い換えるほどのカネがない。男子18たるもの、自分で稼いでマシンを買わねばならないのだ。
そんなワケで常にいいバイトはないものかと探していたところ、城みちるに良く似た学校スタッフから“出版社に勤めている先輩がアルバイトを探している。行ってみないか?”と誘いを受けた。
城みちるの先輩といえば西郷輝彦あたりか?とも思ったりしたが、そんなことはどうでも良くて、渡りに船とばかりにその出版社を紹介してもらうことにした。
水道橋橋駅を降りて、おっさんたちが小耳に赤鉛筆を挟んで向かう橋とは反対側へ周り、パチンコ屋の小道を抜けて左に真っ直ぐ進んだところに、その出版社はあった。ちなみに、このエリアは昔から出版社が多く、ベースボール・マガジン社や少年チャンピオンの秋田書店、おとぼけ課長で有名な芳文社も水道橋だ。
面接当日は、出版社の代表であり編集長でもあるU編集長が直接行ってくれることになっていた。あらかじめ城みちるからは、「大人になったのび太くん」のようだと聞かされていたのだが、実際のU編集長はのび太くんというよりは、ダーク・ダックスとかデューク・エイセスとかの4番手あたりにいそうな、横分けでメガネの地味なおじさんという風貌だった。
面接当日はどうやら校了あとだったようで、編集部内にいたのはデューク・エイセス4番手似の編集長と経理のオバサン、雑用係で雑誌作りには関係ない先輩バイトが一人という状況だった。
それまで出版社の編集部といえば、目を三角に釣り上げた敏腕編集者が小耳に赤ペンをさしてくわえタバコで電話をかけながら
“キャップ!スクープです!”
“よし、一面を書き換えだ。急ぎで記事をかけ!”
“うへぇ、今日も帰れないなこりゃ・・・”
みたいなやり取りが日常的になされているものだとばかり思っていたので、板橋あたりの図書館のような雰囲気に大きなギャップを感じたが、時給800円という当時としては破格のギャランティと学校が終わってから夜まで働けるという条件の良さも加わって、二つ返事で決めてしまった。
■はじめてのお仕事はスタックの評価記事
しかも間抜けなことに、自分が勤めることになった編集部の名前を知ったのは初出社のときだ。出版社の名は「PCワールドコミュニケーションズ(のちに佐久書房)」と言い、「MacWorld(のちにMAC+、MAC+ Cyber、以下MAC+)」と「PC WORLD(のちにPCワールド、PCW、以下PCW)」という、2つの月刊誌を発行していた。
実は、この「MAC+」こそ日本で初めて発行されたMacintosh専門誌なのだが、当時、Macintoshなどという舶来の高価なおもちゃで遊んでいる人といえば、よほどの金持ちか、一部のAppleマニアしかいなかった時代だ。マッキントシュと言えば“キットカット?”と返されるのが当たり前の時代に売れるわけもなく、マイナー誌扱いを受けていた。
さっそくU編集長より、製品レビューと読者投稿のようなページの担当を与えられ、記念すべき最初の仕事として、当時リリースされたばかりの「HyperCard」を使って作られたスタックの紹介記事を書くよう命令が下った。
アメリカから送られてきた、多数のスタックの中から、面白そうなものをチョイスし、コメントを書くという簡単な仕事だ。しかし、こちとらMacを使うのも初めてなら“HyperCardって何? スタックって? PDSってなによ?”という状態。
牛の絵をクリックすると「モ~」と鳴く、ただそれだけのスタックやピアノを弾くと中から猫が飛び出してくるなど、くだらないものばかりだったが、それに「牛が鳴いても~びっくり!」のような、まるでプロ野球珍プレー好プレーでの“みのもんた”のナレーションなみに間抜けたコメントをつけた気がする。
そんな調子で、どうにかこうにかスタックの評価レビューをこなすことができたが、続く製品レビューではとんでもない勘違いから、大変な間違いを犯してしまった。
U編集長から渡されたのは、手のひらサイズの小さな器械。入ってまだ一週間程度のボウズにページを担当させるU編集長の度量には驚かされるやら呆れるやらだが、バイト代をもらってる手前、引受けざるを得ない。
さっそく説明書を読んでみると、どうやらMacにつなげることで国内メーカーのプリンターを利用できる器械らしい。当時のMacはApple純正のImageWriterしか繋ぐことしかできず、なにより高い。そこで、手持ちのプリンターに繋ぐことができれば、お安い投資になるというわけだ。
編集部にあった精工舎のドットインパクトプリンターにつないで見ると、WISIYWIGとはいかないものの問題なくプリントすることができた。さらに説明書を読むと、漢字TALKにも対応し、PC98などにつないで通信することもできる。と書いてある。
アップルジャパンが設立され、漢字TALK1.0がリリースされたばかりの頃である。Macintoshを使い始めてまだ一週間程度のボウズには、漢字TALKが何をするものなのかわからなかった。
そこで、“TALKというくらいだから通信ソフトなのであろう。漢字を使った通信ができるのだろう”という勝手な予測を元に原稿を書いてしまったのだ。
しかも不幸なことに、その原稿は誰のチェックが入ることもなく、そのまま誌面に掲載されてしまい、のちに読者から“あの記事はよくわかりませんでした”と書かれたハガキが送られてきた。
“書いた本人がわからないんだから、そりゃわからないよなぁ…”と思いつつ、そのハガキを懐に入れて、あとでこっそり廃棄したのことは、30年目の告白として初めて明かす事実である。
■“あどべ”ってなんぞ?
インターネットがない時代に、最新の情報やソフトが毎日のように送られてくる編集部で働くことができたのは幸運だった。
Adobe PhotoshopとIllustratorは、今では知らない人がいないほど有名なアプリケーションだが、誰よりも早く、最初のバージョンである1.0に触れる機会を得ることができたのも、編集部に勤める特権だった。
“アメリカからなんかグラフィックソフトみたいなの送られてきたから使ってみて”と、受け取ったのが、風月堂のゴーフレットでも入ってるんじゃないかと思われるほど大きなパッケージ。さっそく開けてみると、分厚いマニュアルが数冊とVHSのビデオテープが入っている。
四角や丸を描くツールはあるものの、直線を描くツールはない。ペン先の形をしたツールは線しか描けないし、何よりImageWriterではプリントすることもできない。どうしたら良いものかと考えた結果、これはもしやCADツールなのではないかと自分の中で勝手に結論を出して放置しておいた。
アドベは長らく編集部で放置され、そんなソフトがあったことすら忘れかけた頃に、別な評価記事で遣われる予定のプリンターが編集部に届いた。たしか「Turbo Leaser」という機種名だったと思う。
プリンターというよりはコピー機にしか見えない大きな筐体で、説明書を読むと「PostScript対応」とある。そこでもしやと思い、忘れかけていたアドベを起動し、再度プリントしてみると、ムラのないベタにドットが見えないなめらかなライン。書体はまるでインスタントレタリングで作られたかのように美しいプリントアウトを見ることができた。
ここで初めて、Illsutratorがどのようなソフトかがわかったのである。その後、レーザープリンターは返却期間をすぎても、しばらく編集部内におかれ、図版の作成、イラスト、デザインにと大活躍した。
■日本で初めてSIMCITYのレビューをお披露目
ゲームレビューもよくこなした。とはいえ、モノクロ一体型マックが主流の時代。“Dark Castle”や“Deja vu”など、本国ではそれなりに売れたソフトも日本での知名度は低く、98や88などと比べたら、ドマイナーもいいとこだった。
そんななか、秋葉原の某ショップからレビュー用にあるゲームが送られてきた。タイトルは「SIMCITY」。今でこそ、誰しもが知るシミュレーションゲームのヒット作だが、当時はアメリカでも発売されたばかりで、日本ではまだ、どこにも取り上げられていなかったはずだ。
パッケージを見ると、何やらゴジラらしき怪獣が描かれている。SIM CITYに限らず、当時のゲームパッケージは本当に趣味が悪いものが多く、ゲームの魅力を半減させる魔力を持っていた。
このゴジラもどきに“なんだかなぁ…”と思いつつも、早速プレイしてみると、ゲームというよりはグラフィックソフトのような画面が現れた。左にツール類のパレットが配置され、この中からツールを選んで、アイテムを設置する。説明書を読まなくても直感的に遊ぶことができる。
さっそく道路を敷設して、発電所を設置すると何やらアラートが表示された。よく見ると、ツールパレットに電柱のアイコンがある。“そうか、作った電気は電線で通さなくちゃな”とブツブツ独り言を言いながら画面を操作すると、やがてエリア内に家がポコポコ立ち始めた。
ここまで理解すればあとは早い。仕事をそっちのけで街を作ることに没頭し、その日の夜には、如何にこのゲームが面白いかを編集部内で力説するまでになった。
いつもなら、1ページ程度のレビューで終わらせるところだが、あまりにも面白かったので新聞の号外風のページをもらい、ちょっとふざけた感じで追加レビューをさせてもらった。
おかげでSIMCITYの記事は、これまでにない大きな反響を得て、得意満面のハズだったのだが、ここでも大きな失敗をしでかしてしまう。
ゲームを提供してもらった某ショップではなく、別のライバルショップを提供と書いてしまったのだ。1年中鼻炎で鼻詰まりの某ショップ店長に大いに叱られ、日本初のSIMCITYレビューに大いなる汚点を残してしまったのだった。
■ついに憧れのASCIIへ!
そんなこんなで、出版社という未知の世界へ足を突っ込んでからはや3年が過ぎたころに編集部を卒業。高級なオモチャだったMacintoshも知名度があがり、世間でもMacと言えば“グラフィックに強いパソコン”くらいの認識ができてきた。
その間にもPCワールド社はU編集長が退陣し、経営が入れ替わるなど大きく様変わりしはじめていた。Macintoshの知名度はあがったものの、ライバル誌も増え始め、MAC+は一向に売れなかった。
編集部を辞め、専門学校は卒業したものの正式に就職することもなく、いくつかの雑誌で原稿などを書く仕事を請け負いつつプラプラしていた自分に、先にMAC+からASCIIへ移籍した前副編集長からお声がかかった。
当時のASCIIといえば、LogInやファミ通が売れまくり、PC系雑誌の出版社のなかでもブイブイ言わせていた時期だ。かくいう自分もLogInの名物編集長、Kさんに憧れ、いつかLogInで仕事をしてみたいと思っていたところでの移籍話である。
その後、契約社員として憧れのASCIIへ移籍することになるのだが、その話はまたいずれまた!
(保坂)