ゲームデザイナー「ぱぱら快刀/海道賢仁」様リレーブログ クリエーター編(後編)
前編はこちらです
ベーマガへのプログラム投稿
さてそんなころ、父親の自営業も軌道に乗り、金回りもよろしくなってきた両親に初めて買ってもらったマイコンが、EPSONの「HC-20」というハンドヘルドコンピューターです。いまでいうノートPCです。いや、見ため的には超デカいポケコンかな。現代ですとテプラの高級機にも似てなくもないですね。
20桁4行の文字を表示可能な大型モノクロ液晶ディスプレイにフルサイズのキーボードと内蔵ニッカドバッテリー。さらにドットマトリクスプリンタとマイクロカセット規格の電子制御式データレコーダー(オプション装着品)をボディ一体化で搭載でき、なおかつ重量は1.6kg程度という、当時の究極ポータブルコンピューターです。歴史的名機です。こいつを手に入れるなんてなんてラッキー!いちおう買ってもらえた名目としては、父親の設計の仕事で必要な強度計算などをこいつでやれるようにする、ってことでしたけどね。ま、その計算ソフトは実際に作りましたよ。えっへん。
HC-20はプログラマブルキャラクタージェネレータ領域を持っていたため、自分で好きに描いたドット絵を文字キャラクター(要は絵文字っすね)として軽快に動かすことが可能でした。なのでゲームっぽい画面を簡単に作れて、ゲーム制作にも向いていた機種でした。
そこでぼくはHC-20では、シューティングゲームやパックマン的なドットイートものなどいろんなゲームを作っては、読者投稿プログラムを掲載する月刊誌「マイコンBASICマガジン」へ投稿していましたね。実際に掲載されたことも何度かありましたよ。中学2年の終わり頃から3年生の頃ですかね。掲載されると掲載料として1万円ほど送られてくるので、お小遣い的にはたいそう助かりました。といってもマイコンショップの店頭でプログラム保存用に使うための5インチ2Dフロッピーディスク10枚入り1万2000円!とかを買ったりしてすぐ無くなるんですよねえ。
商業作品デビュー
そのうちにいろんな機種で様々なゲームを作れるようになり、プログラミングにもだいぶん自信がついてきました。あ、そのころには入り浸ってたマイコンショップでプログラムコンテストがあり、ゲーム部門で入賞してパッケージソフトとして販売されましたよ。これがぼくの商業ゲーム初作品ですね。PC-8001のBASICとマシン語で作ったブロック迷路ゲームで、「倉庫内の死闘」というタイトルです。
ゲームとしてはわりと初歩的でテキトーなものでしたが、ゲーム画面の端々に当時著名だった伝説の「女子高生ゲームプログラマー高橋はるみ」さんの影響を強く受けていた様子がみてとれます。
高校時代
学校でマイコン
そんなこんなで中学生時代が過ぎていき、ぼくも高校進学の時期を迎えます。マイコンという呼び名もあっという間にパソコンへと移り変わりはじめ、コンピュータが身近なものとして一気に浸透しはじめた時期です。ぼくはこのビッグウェーブに乗り、パソコンを勉強できるというか、置いてあって好きにさわれそうな高校へ進もう!と思いを固めます。当時調べたところでは、コンピューターを使った情報処理を専攻できるのは商業高校か工業高校のどちらか、あるいは高専かということがわかりました。考えた末に、結局もっとも自分の興味とマッチしていた工業高校の電子科へ進学することになります。
部活でゲーム作り
さて高校へ進学したぼく。中学に引き続き放送部への入部を考えていたのですが、なんと、あったではないですか「マイコン同好会」。これやがな!さっそく入部というか入会です。この高校にはマイコンをずらりと並べた教室が2つ。FM-8を1クラス分揃えた部屋と、ベーシックマスターJr.を同じく揃えた部屋。これらはそれぞれBASICとニーモニックを学ぶ用。ほかには大型コンピュータ室もあって、高級言語のFORTRANをマークシート式のカードでプログラミングして利用できます。マイコン同好会はこのうちFM-8の部屋を拠点に活動をしており、放課後は毎日2時間みっちりプログラミングをしたり自作や市販のゲームをしたり芝生の中庭で草野球したりして過ごします。ゲームもRS232CでFM-8同士を繋いで寿司マージャンゲームで対戦とか、高校ならではの高度な活動ですね。
FM-8はインターフェイスのひとつにアナログポートを標準装備しており、アナログ信号をA/D変換して読み取ることができました。なので、工業高校の工作機械で作った部品に、簡単なユニバーサル基板と電子部品を組み合わせると、アナログジョイスティックのコントロールパネルなんかは簡単に作れて繋げて遊ぶことができます。もちろんソフト側でも対応してないといけないので、もっぱら自作ゲーム専用コントローラにしていましたね。
さてマイコン同好会の部活動時間が終わると、同好会のメンバーは三々五々学校敷地の隣にある駄菓子屋のゲームコーナーに集まり最新ゲームを遊び…いや学びます。勉強熱心ですね。その駄菓子屋奥のゲームスペースにはテーブル筐体が6台ほどレイアウトされていて、1プレイ50円ながらもどんどん最新ゲームに入れ替わるという充実ぶり。「スターフォース」や「スパルタンX」「ロードランナー」「B-WING」といった人気機種から、「ロットロット」「ゆけゆけ山口君」「サイオン」「侍日本一」といったマイナー機種まで、様々なタイトルがじゃんじゃん入れ替わっていきます。この駄菓子屋で小一時間ほど過ごしたあとはさらに200mほど離れた大型娯楽施設へ。ここにはサウナやパチンコや大型書店などに混ざって大規模なゲーセンがあり、テーブルゲーム機のほかに大型筐体モノなどはこちらで遊べます。テーカンの「ワールドカップ」やセガ「スペースハリアー」「カルテット」などですね。ゲームで遊びつつ隣接の書店にも立ち寄り、テクノポリス誌やBEEP誌なんかを読んだり買ったりも。便利すぎる環境ですね。
認識的にはここまでが部活動。その後は流れ解散となりますが日課はそれでは終わりません。帰宅の際には繁華街を通るので、そにあるゲーセンを目指します。おっと、途中の郊外型ジャスコ店舗にあるゲームコーナー、ナムコランドも要チェックです。新台の入荷などないか定期確認し、それらの情報を持って繁華街のど真ん中、ビッグキャロット金沢店に入ります。
ビッグキャロット金沢店。ここは金沢市内のゲームファンが集う総本山的存在で、さまざまな常連客であふれかえるマニアの社交場でもあります。まずは常連客同士のあいさつと情報交換。それが終わると腰を落ち着ける前に、先に近隣徒歩2分エリアに2軒もあるプレイシティキャロット片町店の巡回へと出かけます。ひととおりの挨拶が終われば、目的のゲームや交換ノートのあるほうの店舗、ぼくの場合はビッグキャロット金沢が多かったですが、そちらへ戻りじっくりと楽しみます。
この頃のナムコは店舗でのコミュニティ形成にとても熱心で、店舗ノートやひとこと掲示板が充実していたほか、店舗内で独自ゲームイベントや常連客同士の交流会なども主催し、常連ゲームマニアの活動活性化をサポートしていました。店舗を一時的に営業中断し、貸し切り状態にしてナムコのプロモーションビデオ上映会をやったりとか、手の空いてる常連客を集めて新入荷のダライアスやハングオンの筐体をみんなに担がせて2階まで運んだりとか、そういうやつです。なんていうんですかね、お店と客との一体感ですかね。
ファミコン改造
ゲームとコンピューターに戯れる毎日に、学校で体得する電子工作技術が加わると、やれることがどんどん拡がってきます。自宅のゲーム環境を充実させるためファミコンの改造などにも手を染めはじめます。当時のファミコンはテレビにはRF接続でしたが、ファミコンに内蔵されたRF変調器を通す前の内部出力はコンポジット信号だと知り、ファミコンの内部基板にRCAビデオケーブルを直接ハンダ付けして信号を取り出し、TVにビデオ接続で直結する改造などをしてました。RF接続に比べると映像のくっきり度がまるで違います。AV端子とS端子ぐらいの差がありました。これは他の人からも頼まれて何機も改造しましたね。ほかには、仲良くなったゲーセンから廃棄予定の業務用2人用コンパネをいただき、これをファミコンに接続できるよう改造したりもしました(こちらは純正コントローラをバラした基板に、業務用コンパネから出てる配線をハンダで直付けするというローテクです)。この改造コンパネを折りたたみテーブルなんかに固定すると、ばっちりゲーセン仕様のゲーム台の完成です。これでバルーンファイトやアイスクライマーの対戦プレイ?も盛り上がること請け合いってもんですね。
パソコンゲームの隆盛
さてこの頃、個人向けのパーソナルコンピューターつまりパソコンの高性能化も急激に進みます。ということはパソコン用ゲームの高度化も急速にすすむということでもあります。歴史的名機PC-8801mkⅡSRが発売されると、PCでは苦手とされていたアクションゲームも多く発売されるようになり、FM音源によるゲームミュージックの充実、グラフィック性能向上によってアニメのようなビジュアルを備えるゲームも当たり前になりました。このようにゲーセン、ファミコン、PCゲームと、周囲のゲーム環境が一気に充実していく時代の到来です。
運良く最新PCを手に入れた友人宅を訪ねては居座って、ぼくはPCゲームを熱心に遊ばせてもらっておりました。「テグザー」だとか「ハイドライド」や「ファイナルゾーン」だとか「シーナ」などのアクション系ゲームですね。自分の家には型落ちになってしまったPC-8801mkⅡがあり、「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」だとか「ブラックオニキス」だとか「夢幻の心臓」などのADVやRPG系をじっくり遊びます。ブラックオニキスの全ダンジョンを方眼紙にマッピングしたことに気をよくして、ダンジョン型ゲームの手描きマッピング作業にハマっていきます。夢幻の心臓の全ダンジョンマップの写し取りに成功すると、マッピング欲はさらに貪欲に膨れ上がり、最終的に夢幻の心臓の地上のフィールドマップの写し取りに挑戦するようになります。ついに方眼用紙を何枚もつなぎ合わせた力作が完成し、ゲームのエンディングには到達できてないのですが、夢幻の心臓を完全攻略した気分になってご満悦です。完全に違う楽しみにズレてますね。
余談ですが、夢幻の心臓の地上フィールドマップは上下左右がループしているようにみえて、実はちょっとひねった地図端ループ処理をしていることがこの作業で判明しましたよ。このことを突き止めたときは衝撃でしたね(簡単にいうと細長い紙をひねりながらつなぎ合わせ、ちょうどトイレットペーパーの芯のような円筒形にし、さらにその上下端をワープで繋いでループさせたみたいな構造…よけいわからないかw)。
さて極めたマッピングの次に凝り始めたのがコンストラクション系です。特にPC-8801版「ロードランナー」のコンストラクションでの面エディットは、ものすごくやり込みましたよ。このオリジナルステージ作成の分厚い体験が、土台としてのちのレベルデザイン能力に繋がったと思います。いろんなスタイルのステージを作りましたが、今回発掘できた画像から、「詰めロードランナー」とよばれる特殊ステージの例をご紹介しましょう。ドヤァ!
(写真解説)
自作の「詰めロードランナー」の問題(敵の番人なし、金塊を取って脱出する手順を見つけ出すことだに特化した、脱出ゲームともいえる面構成)を当時作ってた同人誌に載せたもの。金塊を取って最上部のハシゴで脱出する問題。Eのレンガを掘ったあと金塊の上から飛び降り、DEとBのレンガ上を走って脱出するが、そのときにCとAのレンガは開いてなければならない、という「ネ」の字のカタチをしているステージ。(レンガの復活タイミングがシビアなため実際にクリアできるかは機種依存となる)
みんなのたまり場「ボスの家」
その頃。中学時代の仲のよかった同級生たちが、それぞれ進学した高校で広げた交友関係とビッグキャロット金沢店の常連客グループとがリンクして融合していきます。当時のビッキャロ常連メンバーは、ハイスコアネームでいえば「スパーク炎上児」「諸星月光」「遊星少年」「やんちゃ姫」さんといった方々ですね。さらに繁華街のはずれに、ぼくの親しい友人が親と離れて住む家があって、そこがキャロットとは別にみんなの集まるたまり場と化していくようになります。
当時はケータイやスマホがない時代でした。出先で連絡を取り合うための連絡基地としても、出入りのしやすい自由な隠れ家は重要でした。RPGでいうとギルドの酒場的存在ですね。ゲーム、マンガ、アニメの同好の士たちが、今日は誰か来ているかと代わる代わる挨拶に訪れては自分の行き先や予定を言付けたり、しばらく過ごして他の仲間と待ち合わせたり、ただ単に入り浸ってひたすらマンガやビデオを鑑賞したり。繁華街至近という恵まれたロケーションでじつに便利な活動拠点でありました。そのたまり場ギルドのあるじの名は通称「ボス」。家の入口には「スリーピー」という名の番犬が寝そべっており、その犬に気に入られた者でないと、出入りのメンバーには認められないぜ、という掟もありました。それか地獄の番犬を飛び越えて来い。あと部屋には「スライム」と呼ばれる猫がいて、皆にたいそうかわいがられておりました。
同人活動
そういったメンバーがたまり場に集まったものですから、当然自然な流れで同人誌を作り始めることになります。なるんです。当時の空気は。ぼくはその中心的なメンバーとして、得意なゲームの攻略法や自作の小説もどきやら四コマ漫画やらを書きました。そういった仲間内の原稿を集め、一冊の同人誌にまとめます。父親の設計事務所にあったコピー機で手書きの原稿を縮小印刷し(縮小をかけるのがコツですね)、仲間で手分けしてページを折ってホチキス止めに。A5判20ページほどの白黒コピー本の完成です。おおよそ月いちの発行で、6〜7刊ぐらい続けたでしょうか。コピー代と紙代はきちんと親父に支払い(原価にまけてくれました)、経費?を乗せてキリよく一冊200円。ナムコの店長に頼み込んで、ビッグキャロット金沢と周辺のプレイシティキャロットにお願いし、店の両替カウンターに置いて委託販売してもらいました。創刊号は50部でスタートしましたが、発行を続けるうちにじわじわ人気も出て、最終的には200部ぐらいがコンスタントに売れるようになりました。ゲーム攻略の内容は「ファンタジアン」や「ファイアクリスタル」の全マップ集とか、「ディグダグII」の攻略技集だとか。そうそう、当時出回ったFCゼビウスの裏コマンドの噂をいち早く検証し、コマンド入力後の数値コードの効果を解析して3日後にはもう掲載して発行したこともありましたね。その1週間後ぐらいに発売されたコンプティーク誌に同じように載っていたけれど、それより掲載早かったのはしてやった感がありましたね。ほかには近県のハイスコア集計店を巡った取材ルポとかも書いたなあ。夏休みを利用して1週間ぐらいかけて名古屋中の有名ゲーセンを回って大長編ルポにまとめたりとか。その他雑多ながらも旬のゲームやアニメ系記事を毎号掲載してました。コピー本でしたので、売るときにみすぼらしく見えないよう、一冊一冊ポリ袋でていねいに包装して上品さを演出したりなど、小技にも気を遣いましたよ。コピーも製本作業もみんなで手分けして手作業という一貫工程でとても楽しかったですね。ものづくりや共同作業ってほんとにいいものです。
地元のコミケにも参加してブースかまえて仲間の人たちが作った姉妹本とか同人ソフト、ぼくは得意のロードランナーで作った自作ステージ集150面入りとか、などなどを売って、けっこう面白かったなあ。
麻雀三昧の日々
さて、一方でこのたまり場では、アナログな麻雀での対戦も盛んに行なわれていました。映画の「麻雀放浪記」のビデオを見てそのかっこよさにシビレたみんなが、暇さえあれば卓を囲んでは勝負を打(ぶ)ちます。ぼくは原作小説はもちろん、阿佐田哲也の他のギャンブル小説も片っ端から全て読みあさります(高校の図書室になぜ阿佐田哲也が置いてあったのかは謎ですが)。麻雀だけではなく多彩な種類の賭博ゲームがあること、ルールを最大限活用した勝負展開の妙と意外性、登場人物たちが語るストイックなギャンブル哲学、勝負師たちの織りなす緊張感や私生活での意外な素顔。そういった要素に陶酔しました。劇中に出てくるサイコロを振って狙った目を出す技や、その他手癖の悪いイケナイ技をみんなで練習したりもしてましたね。
シリアスな麻雀放浪記の対極に「ぎゅわんぶらあ自己中心派」というギャグ麻雀漫画があったのですが、こちらも人気でした。放浪記と自己中心派、それらのネタを模倣するかのように仲間内で濃密に麻雀合戦を繰り広げたことで、対戦ゲームにおける心理戦やコミュニケーション、ルールアレンジによって起こる戦術変化、運と技術のバランス配合といった実体験を、肌感覚で積み重ねることができたのではないかと思います。この経験は、ゲームの仕事をする上でのコアな基準というか、貴重な財産になっていると、自分は信じています。
衝撃を受けたゲームたち
アナログなゲームといえば、カードゲームもヘビーにやりました。キャロットの常連だった美術専門学校のお姉さまがたに誘われ、店の上階にある喫茶店のテーブル席で「キングスコート」というカードゲームを教えられ、その面白さの虜になります。キングスコートは簡単にいえばUNOのクローンゲーム。ルールの基本は同じですが、違いはゲームのテーマが中世ファンタジーの世界観になっていることです。
王の宮廷(コート)という名の示すとおり、カードにはそれぞれ中世の王侯貴族や騎士、はたまた魔術師やドラゴン、魔法の巻物といった雰囲気たっぷりのイラストが描かれています。手持ちの騎士カードにはカラーとナンバーが振られこれがまあ数字カード。いわゆるドロー2とかスキップとかリバースなどの役物カードはスクロール(巻物)カードと呼ばれ、巻物の絵柄とともにクイーンとかデュークとかドラゴンといったキャラクターが割り振られてます。
キャラクターはカードの役ルールと一体化しており、例えばフェアメイデンのカードはエスコート役となるカードに続けてのみ場に出せる(通常カード+フェアメイデンの2枚を場に出せる)、ドラゴンのカードは進行方向をリバースかスキップかそのままかを選んだうえ次のプレイヤーに山から3枚取りさせる(つまり攻撃範囲内の対象プレイヤーを選んで3枚取りの攻撃をかける!)。さらにここでUNOにはないキングスコートの独自性として、攻撃に対する防御カードの存在があります。前プレイヤーからの攻撃プレイを受けても、次プレイヤーがプロテクションカードを出せばその3枚取り攻撃などを無効化できるし、王令カードを使って防御すれば、攻撃してきた相手にその攻撃効果を反射できる。攻撃反射をくらっても、もし最強のマジシャンカードが手持ちにあれば、彼はどんなカードにも化けることができるため(マジシャンがあらわれた!)、さらに王令カードに化ければ反射された攻撃効果を再び反射しかえして結局次プレイヤーにカードを取らせる……といった遊戯王ちっくなプレイも可能なのです。このように、ルールとキャラクター性が一致した、ストーリーのある攻防やゲーム展開が楽しめる点が最大の特徴なのであります。
ゲーム内容そのものはUNOやページワン等に似てますが、配られた手持ちカードを処理するためのゲーム毎の戦術構築は「大貧民」のそれに近く、運と技術のバランスもいい。さらに世界観とキャラクター性が加わることで、脳裏には宮廷広場に続々と到着し入場する騎士や大公、貴婦人や宮廷道化師、はては突然乱入してくるドラゴンや魔術師といったイメージが脳内再生され、もうプレイしてるときのノリとかっこよさがぜんぜん違います。めっちゃ高まります。あの無味乾燥で抽象的なUNO(失礼!)が、世界観とキャラクターを付加することでこんなにも興奮するゲームになるとは!という目からうろこ体験でしたね。このことは、後年のぼくのゲームづくりに大いに影響することになりました。
1986年のピンボール
ゲームセンターのほうでも衝撃的なゲームとの出会いがありました。しかしそいつはビデオゲームではありません。その頃のぼくはマーブルマッドネスやテーカンワールドカップなどの玉転がし系ゲームに心酔するトラックボーラーと化していましたが、その状況で、「ブラックナイト」以来の衝撃的なフリッパーピンボールマシン「ハイ・スピード」と対面します。
これまでのピンボールマシンも様々に魅力的な世界観やモチーフで彩られてはいましたが、ハイ・スピードでの世界観モチーフの使い方は、彩りという枠を越えたまったく新しいものでした。ポリスカーとのカーチェイスがテーマであることはマシンを見れば一目でわかります。ゲームスタートボタンを押せばエンジンをかけるイグニッション音が鳴り、プランジャーをはじけば激しいスキール音と共に車が発進していきます。いえ走っているのは銀色のボールではありますが、それが自分の運転する車だという見立てが自然にできてしまう。縦横無尽に道路レーンを走り、ランプを登ってフリーウェイに乗り込み、ジャンクションを行ったり来たり。赤信号を突破するとパトカーのサイレン音が鳴り響き、激しい追跡劇が始まったことが分かります。道路から道路へ渡り歩きつつエスケープに成功すればマルチボール開始。パトカーを振り切りボールを隠れ家に飛び込ませればジャックポットが獲得できます。ゲームプレイによるフィーチャー進行そのものがストーリー劇の流れになっており、各部のライトフラッシュや車の効果音、シーン展開にあわせたイカすギターサウンドのBGMで否が応でも気分が盛り上がります。メカニカルな機械部品だけで構成されたマシンで、これだけのストーリーラインを想像させ描かせることができるとは! 絵やシナリオテキストに頼ることなく、ゲームプレイそのものでドラマを表現できるという事実を体現し、教えてくれたのがこの「ハイ・スピード」なのでした。
文化祭でゲームセンター
革命的に面白いゲームたちに痺れっぱなしの一方で、高校のマイコン同好会での活動も忘れず精力的に行なっていましたヨ。ぼくの立場もパソコン同好会会長になりまして、まあ立派なものでございます。新入生の面倒を見たり、夏休みには中学生むけの体験入学プログラムでのパソコン実習のガイドをしたり。もちろんプログラム作って遊ぶことも忘れませんでしたよ。
そんな毎年秋の文化祭は檜舞台。我らがマイコン同好会も気合が入ります。当時、産業ロボット制御の教材として3関節ぐらいの小ぶりのロボットアームが教育用に販売されており、ぼくの学校でも1台導入されてたんですね(誰も使ってなかったぽいけど)。このロボットハンドはRS232Cのポート信号で各関節を制御でき、つまりFM-8などでプログラムを書けば自由に腕とを動かすことができました。ぼくはそいつのハンド部分にスコップ状に曲げたプラ板を固定し、手作りの2ボタンコンパネのボタンを1つ押すとロボの腕が水平方向にスイングしていき、2つめのボタンで地面をすくう動作をさせて元の腕の位置に戻るプログラムを書きました。ロボットは白い紙を敷いた大きなテーブルに配置し、周囲にスーパーマーケットで買った個包装の飴やお菓子をばらまきます。すると……なんということでしょう! 産業用ロボットアームによるアメすくいキャッチャーが完成しました。パソコン本体はテーブル下に隠し、ゲームセンターみたいにボタンだけで操作するアーケードゲーム仕様です。ボタン操作用のコントロールボックスは例によって手作り工作でFM-8に繋げました。文化祭ではこのアメすくいは大人気になって(文化祭なので無料プレイだからですが)行列までできた! ほかにもパソコンのハイレゾグラフィック機能を使った世界の国旗当てクイズゲームや(3択ボタンで回答します)、アステロイド風のシューティングゲーム(アナログジョイスティックとボタンで操作)などを展示して大盛況となりました。きちんと操作用のコンパネを作って、インストラクションカードもきっちり置いて、ノーオペでも回せる方式にしたので展示運営も楽ちんでした。その分準備期間は学校に泊まり込んだりとかビューティフルドリーマー状態で大変でしたけど、これは楽しかったね!
そしてタイトーへ……
文化祭での成功を受け、ぼくはいよいよ確信します。やっぱりぼくゲーム作る才能あるよな、と。オレは天才だ〜〜!と。これはプロでも絶対に通用するぜ、と。
野球の才能あふれる選手は、プロ野球界へと進みます。同様に、ゲーム作りに才能ある人間ならば、当然ゲーム業界に進むべきでしょう。これは、やるしかないようですぞ。
先の進路を心に決めたところで、わが校もちょうど就職シーズンを迎えます。進学か、就職か。すでに実力充分、ドラフトなら上位指名はまあ確実だと思い込んでいたぼくは就職優先に考えます。ちょうどその頃、新卒採用のための求人票の束がわが校にもやってきました。知っているゲーム会社の求人票は2つ、セガとタイトーです。ちなみに、この当時は総合職も技術職もひとまとめの一括採用が主流でした。ですので、ゲーム開発に携われるかはわかりませんでしたが、ひとまずこの2社にエントリーシート(今風にいうと)を送ります。ぼくの第一希望はセガだったのですが、残念なことにセガからは反応がなく、タイトーからは面接の連絡が来ました。採用面接のため東京平河町にあるタイトー本社へ向かいます。金沢駅から寝台列車で揺られ上野へ。これが初上京でした。タイトーの面接では、特になにかわだかまりがあったわけではありませんが、セガのアウトランの長所短所、特に短所を多いにディスり、自分ならコンティニュー付けますわ的な改善案をいくつも並べてしまいました。そのおかげか無事タイトーに内定が決定いたしました。セガさんありがとう、そして惜しいことをしましたね!!
面接で上京したついでに都内のゲーセン巡りも欠かしません。巣鴨キャロットや渋谷ファンタジア、新宿キャロットやスポランなど超有名店をいろいろ詣でましたよ。タイトーが手配してくれた赤坂プリンスホテル!にほど近いビジネスホテルで一泊したあと一日遊んで、また寝台列車で金沢へ帰りました。
ゲーム業界でのお仕事
そろそろテキスト量も多くなってきました。タイトー入社以降もたのしーいお話はまだまだ続くのですが、今回は残念ながらこのあたりで。タイトー入社以降の業界話は、また別の機会にお話しできればと思います。その時までお楽しみに!
……あれから30余年。ゲーム業界をとりまく環境も大きく様変わりしました。しかしぼくは変わることなく日夜ゲームづくりに励んでいます。今回お話した、若き頃に培われたゲームづくりの基本姿勢は、いまもって変わらず自分の中の芯になっていると思います。
アーケードゲーム、ハードウェア開発、コンシューマゲーム、そしてソーシャルゲームと、ぼくが戦っている主戦場は移り変わってきましたが、お客さんに楽しんでもらう、という基本はゲームであるかぎり変わることはないでしょう。ぼくの座右の銘「よりよいゲームを、より安く、より多くの人へ!できればおれを金持ちに!」という理念は色あせることなく、これからも追求していきたいと思います。
おわりに
いまのレトロゲーム界の感想・展望など
温故知新といいますか、ゲームの古典はやはりプリミティブな楽しさがありますね。単なるノスタルジーではなく、現代の最新ゲームを作りあげるうえでも必要な原点や系譜だったり土台だったりするわけです。車輪の再発明を防ぐうえでも、レトロゲームから学ぶということは、これからますます重要になってくると思われます。と同時に、当時いかなる理由のもとにそれら古典作品のゲームデザインが生まれたのか、その思考過程はしっかり研究され分析されるべきでしょう。ゲームを支える技術は飛躍的に向上しますが、技術以外の部分、思想や熱意や技法といった人間的な要素は、それほど大きな進歩も劣化もしないものです。そしてそれらの進歩は遅々としか進みません。
また同時に、プレイング環境、すなわちプレイヤーがいかにそのゲームを楽しむか、という点も、ゲーム文化史を保全するために重要なことだと考えます。ゲームはそれを遊ぶプレイヤーがいなければ成立しません。名器ストラディバリウスに熟達のバイオリニストが必要なように、名作ゲームにも名プレイヤーが必要なのです。そしてその演奏やプレイの価値を知る観衆もまた必要となります。でなければ悲しすぎるわけでして。
作り手、遊び手、その観衆、楽しむための場の提供者。それぞれ立場は異なりますが、これら4者が織りなすゲームシーンの保全と発展こそが、レトロゲームひいてはゲーム全体の発展に本当に大切なことなのではないでしょうか。
今後、ゲームの「商品寿命」はますます伸びていく傾向が進むでしょう。ゲームの古典作品も、忘れ去られるのではなくさらに成長し長寿を重ねていく。そんな未来であってほしいと心から願っております。
次の執筆者のご紹介
さて、このクリエーターブログのバトンをつなぐ次回の執筆者のかたですが、ぼくのタイトー時代の先輩である酒匂弘幸さんをご紹介させていただきます。「フルスロットル」や「チェイスH.Q.」をはじめ「サイドバイサイド」「バトルギア」まで、タイトー歴代のドライブゲームの大半を手がけた伝説的なディレクターさんです。また「ちゃっくんぼっぷ」や「THE運動会」など、タイトーのカワイイ系ゲームの先駆けを切り拓いた方でもあります。きっと興味深い話が聞けるのではないかと期待しつつ、自信を持ってご紹介させていただきました。楽しみですね!
みなさんここまでお読みくださりありがとうございました。またどこかでお会いできるといいですね。ではさようなら〜。
<著者経歴>
海道賢仁(かいどうけんじ)
ゲームデザイナー/ディレクター/プロデューサー
石川県金沢市出身
株式会社タイトー、ソニー・コンピュータエンタテインメントを経て
現在は株式会社ツェナワークスに所属
◆宣伝◆
現在制作中のゲームはこちら 「ドラゴンクエストモンスターパレード」 https://www.dqmp.jp/
個人ブログ: http://kenjikaido.blogspot.com/p/index.html
Twitterアカウント: https://twitter.com/kenji_kaido
◆過去作品リスト◆
1988 「地獄めぐり」AC
1989 「ナイトストライカー」AC
1989 「チャンピオンレスラー」AC
1990 「キャメルトライ」AC
1990 「ソニックブラストマン」AC
1992 「ウォリアーブレード」AC
1992 「デッドコネクション」AC
1995 「X-55」家庭用通信カラオケ機(プラットフォーム開発)
1995 「クレオパトラフォーチュン」X-55
1999 「サルゲッチュ」PlayStation
2001 「ICO」PlayStation2
2005 「ワンダと巨像」PlayStation2
2011 「near」PlayStation VITA
2013− 「ドラゴンクエストモンスターパレード」
https://www.dqmp.jp/ (サービス継続中)
おわり