ゲームデザイナー「ぱぱら快刀/海道賢仁」様リレーブログ クリエーター編(前編)
ごあいさつ
みなさんこんにちは。初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。
わたくし「ぱぱら快刀」こと海道賢仁(かいどうけんじ)と申します。タイトーの先輩である辻野さんからご紹介いただき、今回このブログに召喚されました。みなさんしばしお付き合いください。よろしくね!
ぼくは石川県は金沢市の出身。お隣の富山県の出身である辻野さんは、富山の伝説のゲームファンサークル「TAMPA」のメンバーとして活躍していた方です。タイトーの先輩というだけでなく、ぼくのゲームマニア時代においては近しいながらも雲の上の存在的な大先輩にあたりるわけですね。TAMPAは全国的に名の知れたサークルであり、ぼくが住んでいた金沢のゲームシーン界隈にも数多くの逸話を轟かせておりました。
経歴紹介
ぼくの担当職種は、ゲームデザイナー/ディレクター/プロデューサーであります。
1987年から株式会社タイトーでアーケードゲームの開発に従事。ゲーム企画職として「ナイトストライカー」や「ソニックブラストマン」などのアーケードゲーム機の開発を担当しました。その後、家庭用通信カラオケ機「X-55」のプラットフォーム開発とダウンロード用ゲームタイトル開発にも従事しました。このとき企画としてデザインしたX-55専用ゲームは、後にアーケードやコンシューマにも移植された「クレオパトラフォーチュン」ですね。
タイトーを退職後、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現SIE)に移籍し、PS1「サルゲッチュ」のゲームデザインとアソシエートプロデューサーを兼任しつつ、PS2「ICO」、PS2「ワンダと巨像」のプロデュースを担当。その後PlayStation VITAのシステムアプリ「near」のUX設計をしました。
現在は、ゲームデベロッパーの株式会社ツェナワークスにてゲームデザイナー職として、スクウェア・エニックス社のPCブラウザゲーム「ドラゴンクエストモンスターパレード」 https://www.dqmp.jp/ (絶賛サービス運営中です!みてね!)のゲームデザインをしております。
このリレーブログの趣旨
さて、今回このブログの執筆にあたり「ゲームクリエーターとしてゲーム業界に入るその直前まで、いったいどのように過ごしてきたのかを、サブカルチャー的な面を軸に語ってください」という趣旨の説明をいただいております。なるほど。私がいかにしてゲームクリエーターになり得たか。その長き物語は一夜ではとても語りきれぬ。だが文字数が許す限り語ろう。趣味と創作に満ちた、若き日々のことを……。てな感じのことを、このあと書き進めてまいります。よろしくお読みくださいね〜。
幼年期〜小学生時代
遊びをアレンジ
1969年。石川県金沢市で産声を上げたぼくは、市内のほぼ中心部、日本三名園のひとつ、兼六園にほど近い住宅地ですくすくと育ちました。
長男でしたので、物心ついた頃には保育園に一人で自力通園したりスーパーまでお使いに行ったりできる活発利発で行動的な子供でした。子どものやる遊びはなんでもやってましたが、独自に考えた遊びで楽しむことがわりと多かったように思います。当時のマイブームだったオリジナルの遊びは、近所の家々の庭先や塀の上など、子供がゆえに踏破可能な抜け道的ルートを探しては繋ぎあわせ、長大な秘密の抜け道ルートとして何本も、どこまでも開拓していく、というものでした。道路ではない裏の道を使ってすばやく移動できるようにするってのが、とにかく楽しかったんでしょうね。
ドッジボールと野球とゴム跳び
小学校の低学年のころには、クラスの同級生とともに野球やドッジボールを毎日遊び込むようになります。小学校では、学年のクラスごとになんとなく自主的に結成されたチームが存在しており、休み時間や放課後になるごとに毎日勝手に対抗戦を繰り広げておりました。
ときにはチームメンバーの保育園時代のツテをたどって、校下(金沢では学区のことを「校下」といいます)を越えて近隣の他の小学校まで遠征して対戦をしたり、わりと子供同士のネットワークは広かったりして、楽しいバトルの日々を送ります。
さらに好奇心旺盛なぼくは男子の遊びだけにとどまらず、女子に頼み込んでゴム跳びやあやとりなどにもに参加させてもらったり、なかなかのスケベ心を発揮して女子遊びの輪にも積極的に飛び込んでましたね。じつにませたガキだなうらや…けしからん野郎でしたねえ。
自作アナログゲームで遊ぶ
道具や人数が揃わないときの外遊びでは、かくれんぼやそのバリエーションの「缶蹴り」、鬼ごっこバリエーションの「高おに」「タスケ」「Sケン」、ボール遊びの「四刑」など当時の小学生の定番レギュラーのものが多かったですね。あとは「グリコ」とか。
遊びの参加者構成や人数(ときにはまだ幼い子が混ざっていたりとかもする)、遊び場所の地形状況などに合わせ、みんなが楽しめるようその時その場限りのルール調整をアレンジしていくのがわりと得意でしたよ。
室内あそびではトランプ系が多かったかな。仮面ライダーやウルトラマンなどのトレカ系や、メンコ(金沢での主流は長方形タイプで、メンコではなく「ペッタ」と呼ばれてた)は、なかったわけではないですが、持ち寄ってあるくのが大変なのでぼくの周囲ではあんまり流行らなかったですね。
学校の休み時間。教室内で遊ぶのにスーパーカー消しゴムやらポケットメイトなんかもありました。教室の机の上で10円玉をはじいて遊ぶテニス風ゲームのルールを自作したり、ノートに鉛筆を立てて指で押し弾き、描かれた鉛筆線で移動や射撃を判定する戦車戦ゲームなんかもバリエーション作って遊んでたりしました。等高線や防御壁を描いた簡易マップを用意して、一人遊びの攻略戦ルールなんかも定めてプレイして楽しんでたり。小学生の時点ですでに自分でアナログゲームをいろいろ作ってたんですね。工作では建築現場の廃材拾ってきてはコリントゲームなんかも作ってましたよ。
クラスでのイベント企画
小学校も高学年になってくると、相変わらず野球やドッジ三昧ではありましたが、それらに加えて図書館通い本屋通いにも熱心になってきます。伝記や児童書などの本もよく読んだけど漫画もよく読んだ。ちょうど少年チャンピオン全盛期の頃だったのですが、少年ジャンプでは「リングにかけろ」の連載が佳境でジャンプ人気が徐々に向上、4大少年誌がみな盛り上がっている、そんな時代でありました。少年誌ばかりではなく、りぼんやなかよしなどの少女誌もけっこう読んでましたよ。
まあそんな影響もあって、自分でも拙い漫画を描き始めたり、学校では勝手に新聞係を名乗り出て、教室で壁新聞を定期発行したり、文系に傾きつつあったのがこの時期です。ほかにもイベント系を企画することに興味が出始め、クラス内でリサイクルの空き缶集めを企画したり、転校していった友達をみんなで訪ねるツアーを催行したり、そういったちょっとしたイベント係を自発的にはじめるようになりました。おお、小学生にしてなんというリーダーシップだ!
あ、そうそう、こんなこともありましたよ。ちょうど当時ガンプラブームがあったのですが、ぼくんちは貧乏な家庭だったのでなかなかガンプラなどは買ってもらえない。そこでぼくは一計を案じます。学校のクラス内で「ガンプラ作りコンテスト&展示会」を企画し、担任の先生に稟議を通します。(ぼく普段から普通に雑談とかで職員室に出入りするような児童だったので、ちょこっと職員室内で根回ししたりしてこのぐらいは楽勝でした。)
家では「こんどクラスでガンプラ作りコンテストやることになってさあ…」などとしらじらしくも親に報告です。持ち帰った学級プリントにもちゃんと書いてあるわけですから念入りですな。(自分で頼んで書いてもらったわけですが)
こうしてクラスの誰もが公的(?)にガンプラを買い与えてもらえ、なおかつ学校へ堂々と持っていけるという環境構築に成功します。やったー。教室の後ろの開架棚にみんなの作ったガンプラをズラリと並べて、さらに一工夫、棚の前面をサランラップで覆うと、……なんということでしょう!まるで模型展示会のショーケースのようではありませんか。とまあ、こういう一手間で見栄えのクオリティが向上するということを覚えたのもこの時期の成果。あとはみんなの投票で最優秀賞を決めたりだとか。これが企画というものですかね〜。たのしいね!なおこのときぼくが好きで作ったガンプラはなぜか量産型ムサイでした。モビルスーツではなく戦艦のね……。
電子ゲームとの出会いとゲーセン通い
そんなアナログだった小学生時代の真っ只中、時代はテレビゲームや電子ゲームの第1次ブームを迎えます。
貧乏な家庭のわりには新しいもの好きの父親が珍しく買ってきたのが任天堂の「テレビゲーム6」ですね。児童会館ぐらいでしか見たことのなかったテレビを使ったポン風ゲームがご家庭のテレビで遊べる!衝撃とともに夢中で遊んで、でもまあ3日ぐらいですぐ飽きます。しかしその後にも世間では野球ゲームやゲームウォッチ、FL管などの電子ゲーム、カセットビジョンやオデッセイ、インテレビジョンなどといったテレビゲーム機が次々と発売されていきます。ぼくはゲームへの興味から、市内のおもちゃ屋をくまなく巡回しては、設置されてる様々なゲーム機の試遊品を片っ端から遊び倒すようになります。
ゲーセンのコーチ屋
さらには、おもちゃ屋のゲームだけでは飽き足らず、どこから聞いたのかゲームセンターなるものの存在を知り、小学生にしてこっそりとゲーセン通いを始めてしまいます。
それまでインベーダーゲームにはそれほど傾倒せず、ショッピングセンターや駄菓子屋の小規模なゲームコーナーを見て回ったりすることはありましたが、プレイできるだけのお小遣いを持ってなかったため、ビデオゲームに関してはのめり込むことなく過ごしてきたわけですが、おもちゃ屋で芽生えたテレビゲームに対する興味が、ぼくをゲームセンターへと向かわせます。もっとも小学生ですから繁華街の店はハードルが高くてなかなか入れません。幸いにも自宅近隣の住宅マンションの1階店舗スペースに、喫茶店を改装したであろうちょっとした規模のゲームセンターがあったので、毎日のようにそこへ入り浸ります。当時の薄暗い店内に設置されていたビデオゲームは、「ラリーX」「スクランブル」「ムーンクレスタ」「クレイジークライマー」「スペースファイアバード」「侍」「サスケvsコマンダー」「ジャンピューター」「与作」といったところでしょうか。おお、完全に記憶だけで列挙したけど、念のためネットで調べてみたら年代がちゃんと合っている。よしよしちゃんと覚えているぞ。
まあ当時小学生のぼくがゲームセンターに行ったところで、遊べるお金はまったく持ってないわけですが、他の人のプレイを見てるだけで楽しかったので、ずっとガン見です。たまにはピンボール台の下に潜ったりして、ホコリまみれの小銭を拾ったりすることもありました。セコいですね!
とにかく人のプレイを見て覚える。そうするとプレイせずとも攻略パターンなど暗記してしまうわけですから、だんだんと色気が出てきて、プレイしてるおっちゃんたちのプレイに口を出し始めます。おっちゃん、つぎ下からミサイルくるさけ気ぃつけとって〜!などといっぱしのコーチ屋気取りですね。おお、あんがとな坊主、助かったわ、これお礼やしとっとけや。などとコーチ料として1クレジット分いただいたりなどして、けっこう有頂天です。たのしいねゲーセン!
電子ゲーム
一方、自分で思う存分プレイできたのは電子ゲーム。とはいっても基本はおもちゃ屋さんでタダで遊ぶのですが。あるいはクリスマスや誕生日のプレゼントに買ってもらったものも何台かはあります。
当時やりこんだのはやはり定番の任天堂ゲームウォッチ「ファイア」ですが、これは友達からの借りプレイでやり倒してましたね。いっぽう自分で持っていたのはバンダイの名作LCDゲーム「クロスハイウェイ」。これはフロッガークローンの道路横断ゲームながらも、左右移動を廃することでスピード感のあるプレイが楽しめるなかなかの一品でした。ただしそのゲーム内容といえば、「キャバレー帰りの酔っぱらいのオッサンを操作し交通量の激しい道路をぶつからないよう横断、その先の駅に待つ電車に駆け込み乗車できれば得点」という、現代ではコンプライアンス的に絶対に発売できないであろうものすごい設定となっております。キャラ操作は道路を渡る上下移動のみというシンプルさなのですが、酔っぱらいなので上下への進行パターンは左右にフラフラ動くようなジグザグ状に固定配置されており、これが酔っぱらいならではの千鳥足をみごとに再現。素早くボタン操作すればそれだけ超高速の千鳥足で、路上を行き交う車と車のタイトな隙間をフラァ〜フラァ〜と北斗神拳究極奥義・無想転生よろしくすり抜けていくという、素晴らしいデザインパターンとなっているわけです。そしてこのキャラの動作がじつにきもちいい。表示の切り替わり移動は速いがその絵面はタメの効いたゆったりポーズの酔っぱらいという緩急のコントラスト。道路上を落ち葉がごとく舞い揺れ、電車の到着と同時に蜂が刺すように滑り込む。キャラ設定とゲーム内容ががっちり噛み合ったみごとなマリアージュであります。むう、こいつは天才の仕事ですよ!
思い出の電子ゲームがもうひとつ。当時あまりにもハマりすぎて、ゲームデザイナー的にも多大な影響を受けたFL管ゲームとして紹介したいのがエポック社の「デジコムサッカー」。
このゲームはすごいですよ。サッカーの試合を4人vs4人というバスケットボール以下の選手数にまで抽象化。それでいてFWとDF、GKの3つのポジションロールは確保。前後左右の方向キーと、シュートボタン1個というシンプル操作ながら、ドリブルでのディフェンダーとの攻防や、サイドからクロスボールをあげてのセンタリング、からの〜ゴール前に飛び込んでのシュート。はたまたゴールマウスの隅を狙って放つ45度からのロングシュートで、横っ飛びする相手GKの手をすり抜けポストギリギリで跳ね返ってネットを揺らす圧巻のゴール。あるいは単独ドリブルでゴール前へ持ち込み、フェイントで切り返してゴールへ蹴り込むシュート。自陣深くから縦ポン1本で放り込む速攻のカウンター攻撃。たまたま浮いたボールが味方に渡ってごっつあんゴール!などなど、盛りだくさんのサッカー戦術が再現可能なんですよ。なんということだ!
特筆すべきはこれらがわずか5列×11段、3色FLセルの固定図柄パターンマトリクスだけでもって、ボールと敵味方8選手を表現しているそのグラフィック構成です。たったこれだけでさきほど列挙したサッカーならではの攻防やゲーム展開を再現しているという点は見事と呼ぶしかありません。まさに神のデザインしたゲーム。さらになんとゲーム中には前半後半の間のハーフタイムショーまであるよ!すごーい。
そして、このゲーム、CPUチームと戦うだけでなく、対面での2人対戦プレイも可能で、これがほんとにほんとにアツい。そんでこの対人対戦こそがデジコムサッカーの真骨頂なんですよ。互いに相手の動きと狙いを読み取って裏の裏を読み合うフェイントの応酬。一瞬の隙を誘い、その隙をさらにこじ開けてシュートを叩き込む攻防の快感。極まったプレイヤー同士の対戦はまさに現代格闘ゲームのそれに負けずとも劣らない熱い対戦プレイを生み出し、当時ぼくは1歳違いの弟と、互いを相手に一度始めると数時間は延々黙々と対戦プレイを続けるという激闘を繰り広げていたのでありました。
ただね、デジコムサッカーを対戦でやりこんだ人ってそんなにいないから、なかなかこの興奮と感動を共有できないんだよね……。ちょっと触った程度だと、まあふつうにサッカーをなんとか再現しようとしてがんばってるゲームだな〜、ぐらいの感想になっちゃうと思うんですよね。ああ残念だ……。
とにかくこのデジコムサッカー作ったエポックの人ほんと天才です。ぼくの心の師匠ですね。
電気工作とカタログ集め
ま、そんなふうにゲームで遊んでるうちに、電気回路への興味も湧き上がりはじめます。学研のふろくについていたゲルマニウムラジオを改造したり「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」といったホビー誌を眺めては載っている簡単な電気回路を製作したり。
市販の電気製品にも興味が広がり、次々と発売されるラジカセやウォークマンの新製品にもがぜん心を奪われます。壁掛けタイプの縦型レコードプレイヤーとかカセットテープの側を飛び出させてひっくり返す豪腕のオートリバースデッキとかですね。そうして日々のおもちゃ屋とゲーセンめぐりのほかに、大型電器売場の巡回まで加わるようになってしまいます。電器売場では、各社のテレビ/オーディオ製品の確認や動作チェック、各社が出している最新のカタログ収集などを行いましたね。当時はウォークマンなどのポータブルオーディオやコンポ製品、奇抜なラジカセ製品など毎月のように新製品が出るのでカタログを収集して情報整理しないととても把握できません。あと「やった感」を充足できるのもコレクション系のいいところ。好きな電気製品のカタログはなんといってもSONYのラジオ/クロック製品系! SONYのカタログは他社にくらべて全体的におしゃれなグラフィックデザインでまとまってるんですけど、当時すでに技術差が縮小していたラジオ系製品なんかは特にデザインやブランドイメージ勝負ですのでカタログにもそれが表れていたと思います。季節ごとの新作カタログを集めるたびに、SONYのクールにエレガンスにポップにといった多彩なカタログ作りのうまさに毎回痺れます。大量に集めた当時の各社のカタログ類、実家に残ってないか探してみたんですが、どうやらはるか昔に処分しちゃってたみたい。残念ですねー。
このように小学生の時はほんと忙しかったと思いますね。朝起きて午前中は学校へ。休み時間はドッジボールやゴム跳び、または自作のゲーム対戦。放課後なったら一旦家に帰って野球道具持って公園か河川敷に再集合。暗くなってきたら駄菓子屋寄って買い食い社交、流れ解散で家に帰る。雨や雪なら誰かの家で漫画読書会やアナログゲーム大会。習い事や持病の通院の日もあるけどそういう日は用事のあとには一人で自転車遊びとか。習い事は水泳やトランポリンなどをやってまして。余談になるけどトランポリンクラブがふつうにいくつもあるってのは金沢だけとはしらんかった。まわりのライバル選手が強すぎて小学時代で辞めちゃったよ。休日は図書館行くか、本屋→おもちゃ屋→ゲーセン→電気店を延々巡回。ルーティンだけでもやることてんこ盛り、なかなか充実した毎日ですね〜。いつ勉強とかしてんですかね。じつは勉強ほとんどしてなかったけど成績はかなりよかったので助かりましたね。
マイコンとの出会い
そんな毎日の中、ぼくは電気屋さんの店頭で、ついにあるものと出会っちまいます。
そいつの名はマイコン…。最初に見たのはMZ-80K2というマシンで、なんだか未来的なフォルム。電源が入っていたので興味本位に触ってみたものの、使い方がまったくわからない(なぜならばOSのローディングが必要なクリーンコンピューターだったからだがそれは後に知る)。コンピューターなのはわかるが、そもそもウンともスンともいわないので、なにをどうすればいいのやら。マイコン(まあ現在でいうパソコン)との出会いはこんなもんでした。興味はあれども太刀打ちできず、モヤモヤを抱えたまましばらく過ごすことになります。
中学時代
放送部と電器屋と
おっと。書き進めるうちに中学生になっていました。中学校では野球やトランポリンのかわりに、ねんがんの放送部に入部します。ラジオへの興味から小学校でも放送委員やりたかったんだけど、できなかったんだよね。中学での放送部ライフは、音響機器に触れるのがとにかく楽しくて。全校集会や運動会などで放送設備を設営したり音量調整したりのエンジニア仕事もやったし、運動会の競技内容ごとのBGMを学校ストックの運動会用音源レコードから選曲したり、給食時間に教室に垂れ流す放送番組を企画制作する放送作家的な仕事とか、デンスケ持って街中出て生録したりインタビューしたり。放送業界たのしいね!講堂とかグラウンドでも放送部は涼しい放送ブースで座ってまったりとか、特別待遇なのも素晴らしかったです。
部活の時間が終わったら下校の途中に駄菓子屋寄って、ショッピングセンターのゲーセン寄って、本屋にも寄って、あいかわらず趣味のルーティーンも欠かしません。放送部とゲームと読書(漫画もね)に熱中する日々が続きます。
その頃にはマイコンのこともだいぶんとわかってきましたよ。マイコンの入門的な技術書を一冊手に入れて、書いてあることは難しかったけど少しずつ読み進めていました。分からないときは電器屋のマイコンコーナーまでその本を持って行き、展示品を使って試しては理解していきます。
プログラミングを覚える
そんな中学2年の春、テレビでは伝説の名番組「NHK講座マイコン入門」が始まります。当然買いましたよNHKのテキスト本を。この本は非常にわかりやすかった。NHKなので「機種X」と呼ぶ謎のコンピュータを講座の対象機種とした体は保っていますが、それがNECのPC-8001であることはバレバレで、番組側も大して隠す気もありません。特定機種に偏らない体裁なのか、いちおう他機種へのプログラム移植の場合の注意点などは書いてあったかと記憶してます。ま、そういう大人の体裁を楽しみつつ、この本を片手に電器屋をまわり、展示されてる実機でBASICの基本を試しては覚えていきます。
さらにちょうどこの年、マイコンのみを扱う地場のマイコン専門店が金沢市内にオープンします。店構えは電器屋というより完全に上品綺麗なショールームだったので、中学生が入ってタダで触ったりするには敷居が高そうな雰囲気でしたね。でも最新のマイコン機種たちが多数展示されお触りできるとあらば、ぜひ使わせていただきたい。躊躇しながらお店を訪ねると、「マイコンてまだ新しいものだし、誰かいじってる子がいたほうが客寄せになるわ。買わなくてもいいから、いつでも来て好きなだけ触ってきなさい」などとお店の女性オーナーの方から暖かいお許しをいただきます。ドリップのコーヒーなんかもタダでジャブジャブ飲ませてくれたりしてとても優しい(宮川さんありがとう!なお、この方はいまでも名経営者としてご活躍なさっております)。ほどなくその店は市内のマイコン青少年たちが常にたむろするコミュニティとなっていきます。ぼくも時間のあるかぎり毎日その店へ通い、休日などは開店から閉店までずっと居座り、入門書をめくりながらマシンをいじくり回します。とはいっても展示の機種は様々なので、使いたい機種Xがいつも空いてるとは限りません。NHKのテキストに載っているN-BASICのプログラムを、違うマシン(たとえば富士通のFM-8とか沖電気のif-800とか、その日に空いてる機種ならなんでも)に翻訳しながら入力し、動作を確かめます。なかなか高度ですね。まあそうして3ヶ月もしないうちにBASICはマスターしたかんじになりました。オリジナルのゲームなんかも作れるようになり、つぎはマシン語を覚えていったり、どんどんと成長していきます。
この頃のマイコンでやってたことといえば、マイコン誌に載ってる(主にゲームの)プログラムリストを打ち込んで遊ぶ、自作ゲームを作る、キャラクターエディタやマシン語ダンプモニタなどのツール作成、グラフィック描画のデモ(メガデモみたいなやつね)、などでしたね。あ、そうそうこのころですね、NECの悲運の名機PC-100に移植された歴史的名作ゲーム「ロードランナー」とも衝撃の出会いを果たしましたよ。
後編に続く