レトロゲームファンの皆さん、こんにちは。元雑誌ログイン編集長のほえほえ新井と申します。
今回BEEPさんからご指名いただきまして、「出版業界に入る前まで、どのようにして過ごしてきたのかということを中心に」、ちょこちょこと書かせていただきます。
ただ、なにしろ私は1960年生まれ。タカラのダッコちゃんが生まれた年ですから、”コンピュータゲーム”の話が出てくるのはかなりあとです(笑)。自分史を振り返ると、どうしたってオヤジの昔語りになってしまうでしょう。年配の方は「あー、そういうのあったあった!」と、若い方は「そんな時代もあったのね」というように、ゆるゆると読んでみてください。では……。
目次
『こち亀的少年時代』
最初に書いたように、生まれは1960年、昭和で言うと35年。コンピュータゲームはもちろん、『人生ゲーム』も発売されていない時代です。この頃何をして遊んでいたかというと、基本的には外遊び。鬼ごっこ、ひまわり、どこ行き、秘密基地作り、ベーゴマ、メンコなどなど。 遊び仲間は近所の子供たち=小学校の友達でもあるけど、その兄弟、年上の”おにいちゃん”や赤ん坊(弟や妹)を背負った子が集まって遊んでいました。家が近くということで、遊ぶ約束なんかしないで適当に家を訪ねたり、勝手に上がり込んで遊んでたりって時代です。昔の写真を現在の目で見ると、みんな貧乏くさいですね。
1965年3月か4月。ほかの写真と合わせて見てみたところ、小学校入学式の日で「よそいき」を来ていたらしい。「コンピュータ」どころか「電子計算機」という言葉すら一般的じゃなかった時代です。(A)1つ2つ年上の近所の友達と。(B)自宅の玄関前で。では家の中では何して遊んでたか。ゲーム的な遊びというと将棋、回り将棋、はさみ将棋、軍人将棋といった”将棋モノ“、ダイアモンドゲームをはじめとしたボードゲームなどです。そのほかには木や紙とはさみ、のりを使って子供雑誌の付録作ったり。この時代の雑誌ではまだ太平洋戦争の戦記物の物語やマンガ、グラビアがたくさん載っていたので、自然と戦記物(ミリタリー系)に興味が行き、詳しくなり、レシプロ戦闘機や戦車、軍艦の絵を描いたりプラモデルを作ったりしていたわけです。
3歳のときに『鉄腕アトム』の”テレビまんが“放映が始まり、次いで『鉄人28号』や『8マン』などのアニメ、6歳で『ウルトラQ』、『ウルトラマン』などの特撮ものが始まってからは、ご多分に漏れず、そっち系に行きっぱなしに。『葛飾区亀有公園前派出所』の両さんの過去回そのものの生活ですが、1960年の東京生まれって、みんなこんなもんじゃないでしょうかねー。特別変わった少年時代じゃなくてすみません。
1点ちょっと変わっていることがあります。自分に比べて知識の多い年長者(近所のおにいちゃんたち)と遊んでるうちに、幼稚園の友達が子供っぽすぎる=「お遊戯なんてばかばかしい」、「そんな折り紙、子供だましでしょ」と思うようになって、幼稚園、中退してしまいました。
きっと、4歳児のときに「自分は7~10歳のアニキたちとツルんでるんだぜ。折り紙なんて付き合ってらんねえぜ」とか思ってたんでしょうね。やなガキですね(笑)。
秋葉原デビューとビデオゲームデビュー
小学校に入っても『こち亀』的な放課後が続きます。ゲームも『人生ゲーム』が加わったくらいしか変化はなし。ただ、プラモデルの延長で電子工作にも目覚め、小学5年生で秋葉原デビュー。ごたぶんに漏れず、最初はゲルマニウムラジオの製作。小学生2~3人でラジオデパート、ラジオセンター、ラジオストアー(だったかな?)あたりをウロウロして、アングラなムードの電気街を歩いたのは楽しい思い出です。秋葉原のついでにアメ横に行ってモデルガンのMGCとかCMCとかマルゴーとか覗いたり、できたばかりのマクドナルドで人生初めてのハンバーガーを食べてみたり、ね。
中学校に入って、やっと新しいゲームに出会います。ボーリング場に置かれたピンボールです。週に2回の塾に電車で通っていたのですが、その塾をサボり電車賃を使ってボーリング場でピンボールをしていたんですね。
そして、ついに人生初のビデオゲームと出会います。
そのゲームは、アップライト型の筐体にモノクロモニター、ボリュームつまみのテニスゲームっぽいヤツでした。名前は覚えていないのですが、1973~1975年のことなので、今考えると『PON』か『PON』のパチモノだったのでしょう。
残念なことに、中学時代にはほかには覚えているビデオゲームはありません。次にビデオゲームに出会うのは、約5年後、1978年の『スペースインベーダー』です。
世間の情報から隔離された高校時代
高校に入ると、なぜか硬式野球部に入ってしまいます。中学時代は野球とは無縁、キャッチボールスすらしていなかったのに。両親も自分もプロ野球も見ないのに。なぜ野球部に、それも甲子園を目指すような野球部入ったか、自分でもわかりません。
どんな野球部か調べもせず、「なんか野球ってやりたいよね、スポーツしたいよね」程度で入部したら、頭は坊主、上下関係厳しく、夏の大会後と正月くらいしかちゃんとした休みがないバリバリの体育会系だったのです(ただし強さは東東京でベスト8が目標という程度なのが悲しい)。
幸い、高校に定時制があったため、グラウンドでの練習は午後6時半まででしたが、1年生はそのあと道具の片付けや手入れなどで、帰宅は9時近く。帰宅後は基本的に風呂と夕食、宿題で終わりなので、引退するまではゲームはもちろん、アニメや模型作り、野球部以外のクラスメートと遊びに行くこともできませんでした。それでも強い野球部(甲子園出場という目標がリアルなレベル)だったら本当に「野球命!」だったんでしょうけど、まあなにしろ入部の動機さえ覚えていない程度のモチベーションで入ったわけですから……、そりゃあ……、ねぇ……。
左から3人目が新井。3年生の夏は引退後の「普通の生活」のために、少しだけ髪を伸ばしてもOKだった。といってもスポーツ刈りまで。写真右の5人は1年生なんで五厘刈り。写真だとつるっパゲに見えるけど、新井も1年生のときはこうでした
まっ、今でも草野球は続けているし、当然悪いことばかりじゃなかったわけですが、この間はアニメをはじめとしたテレビ番組はほとんど見られないし、友達と出かけることもできなかったんで、なにしろ同じ高校生・クラスメートとは情報の格差がひどかったです。
そんなわけで、野球部引退までの3年間(実際には2年4ヶ月)は、ある意味では”暗黒の時代“でした……。高校生活の大事な3年間……。当時の自分に会えたら、「野球部はやめとけ!」って言ってやりますね、絶対。
リア充実生活とPC-8801
高校を卒業して浪人になり、やっとビデオゲームに触れる日がやってきます(少しだけですが)。
1978年、『スペースインベーダー』ですね。
このゲームが出た頃(もしかするともう少し前かな)になると、ボーリング場ではなくゲームセンターができてきました。浪人生でアルバイトはしていなかったから、小遣いも少なく、予備校の行き帰りにほんの2~3プレイだけという遊び方でした。
その後、ログイン編集部に入るまで、ゲームセンターにはちょこちょこ出入りして、いろいろなゲームをプレイしましたが、”ゲームにハマる”ということはありませんでした。ゲーム業界、ゲーム雑誌業界を見ると、けっこう「学生時代にビデオゲームにハマって、この業界へ」という方がけっこういるんですが、新井はわりとビデオゲームに淡泊でした。すいません。
大学時代。「ビデオゲームにハマらなかった」と書きましたが、じゃあ、何をしてたんだ、と。
マクドナルドのアルバイトです。
大学1年の自分に、他大学の上級生、同級生、高校生。男女半々くらいの職場。そこそこのお金をもらえて休日も多い。一人暮らしのバイトも多い。マクドナルドでアルバイトするくらいだから、みんな人見知りなく明るいヤツばかり。となると、毎日のように飲みに行ったり、バンドやってみたり、友達の家に泊まり込んでみたり、スキー行ったり、ウインドサーフィンしたり。深夜に車で湘南あたりに遊びに行くことも多かった。ん~、今で言う”リア充”ですね(笑)。
高校野球部(暗黒)時代の反動でめっきり長髪です。フォークからニューミュージックに変わっていく時代ですね。
毎日(今考えると)無為に楽しく過ごしていた大学生時代。バイトにかまけてだんだん大学に行かなくなるってのはよくある話。そんなとき、そろそろ話題になり始めてきた”マイコン“に興味が出てきます。『月刊アスキー』や『I/O』、『マイコン』などを読みあさり、出した答えが「マイコンを買えば安くゲームができる(&なんかいろいろできる)」。
もう少しビデオゲームをやりたいけど、1回100円は高かった。つまり、「マイコンを買えばゲーム1本5000円として50回は遊べる。雑誌に載っているプログラムを打ち込めば雑誌代だけでゲームができる。自分でプログラムを書けばタダでゲームができる。それにプログラムが書けるようになれば、これからの就職に有利のはず」というきわめて短絡的な理由でマイコン購入の方針が決まったのです。
ただ、おわかりのとおり、これにはいろいろと”穴”があるわけです。
・マイコンは高い。PC-8801クラスにモニター、データレコーダーをつけると30万円くらいにはなる
>学生のアルバイトにそんな大金はない。ゲームを100本遊んだとしても、本体代がゲーム1本につき3000円くらい付加される。
・ゲーム1本が5000円くらいで長く遊べる
>当時は店頭のパッケージでもゲーム内容がよくわからず、クソゲーをつかむリスクがある。
・雑誌掲載プログラム
>長い打ち込み時間を考えていない=10時間打ち込むならアルバイトしてソフトを買った方が早い。さらに打ち込みミスのリスク。さらにさらに元のプログラムのバグのリスク。
・自分でプログラム
>BASICのBの字も知らないシロウトがゲームプログラム書けるようになるまで、どれくらいの時間が必要だ!?
とまあ、上記のようなことはまったく考えず、半年くらい貯金して残金は月賦(!)で1982年の1月、PC-8801を購入したのです。そう、新井は楽天的だったのです。
PC-8801と同時に購入したのは、ツクモ電機のスタートレックもどきのゲーム。でも、マニュアルがないんで、いまいち操作方法がわからず、わりと早めにあきらめたはず。たしか3800円くらいでハダカのカセットテープケース売りだったかな。大学生に3800円は安くない金額で、その後慎重にゲームを選ぶきっかけになったゲームでした。
1982年に“マイコンオーナー“となってからは、時間を忘れて雑誌のゲームプログラムを打ち込んだり、打ち込んでは動かなかったり、BASICでプログラムを組んでみたり、そしてゲームを遊んでみたりと、同年代の多くのマイコンユーザーと同じようなことを経験しました。ちなみにプログラムの方はBASIC止まりで、いくつか簡単なゲームを作ったのみです。
ゲームを遊ぶ方はどうかというと、遊びましたねー、たくさん。お金もないはずなのに。
まわりにマイコンを持っている友人はひとりもいなかったため、ソフトの貸し借りはできませんでしたが、貸してくれるところがあったんですよね。昔の話だから、もういいですよね。
ソフマップです。高田馬場のビルの1室にゲームソフトレンタルのソフマップがありました。1本1日いくらでのレンタル。一度に数本を借りて翌日に返却。一晩に数本を心ゆくまでプレイできるかというと、まあ無理なわけで。そこはそれテープだし、ほとんどはプロテクトがかかっていないものでしたから、ねぇ。
半年がかりでログイン編集部のアルバイトに!
そんなこんなで半年くらいたったある日、雑誌『ログイン』に出会います。最初に買ったのは第2号。まだ月刊アスキーの別冊だった本です。
このログインって本、ほかのマイコン雑誌と全然違う! なんていうか、システム的、専門的、お仕事的な堅いコンピュータの話はなく、すごく楽しい! それで1号を探してみたら、なんか違う。1号はまだ月刊アスキーの別冊という色が強くて、エンターテインメント色が少なかったんです。
そして3号。これで新井の人生、方向が変わりました。巻末の奥付に「アルバイト募集」の表記があったのです!
※1号、2号にもバイト募集があったのかもしれないんですが、気がつかなかったのかも。
1983年1月。ログイン編集部宛てに履歴書を送付。「1週間くらいで連絡がくるかなー」と思っていたら、1週間どころか1ヶ月たっても連絡なし。こっちはもうログインでアルバイトする気マンマンで、前のアルバイト辞めて待ってるっていうのに!
と思いつつ、編集部に電話(当時は編集部の直通電話の番号が掲載されていました)。すると、よくあるやつです。「今、担当者がいないから、またかけて」。担当者がいないからあとでかけてくれる、じゃなくて、「かけて」です。まあこっちは応募して審査される立場だから、強くは出られないんですが。
翌日。「担当者不在」。
そのあとは1ヶ月に1回~2回の割合で編集部に電話したのです。いつ採用されてもいいように、しっかりとしたバイトはせずに、スキーバスの添乗員のバイトをして、ひと冬をほぼ雪山で過ごしてしまいましたよ。
電話をかけ続けて、7月になりました。履歴書送付から半年たちました。
「アルバイトに応募した新井と言いますが」、「あっ、編集長の吉崎です。~じゃあ、明日面接に来て」。明日!? 急だけど、この機会を逃すとどうなるかわからないので、もちろん即OKです。
翌日、編集部にて吉崎編集長と面接。なにぶん昔のことなので、何を話したかよく覚えていないんですが、大学の時間、バイトできる時間とか聞かれたような。仕事内容についてはあまり話さなかったような気がします。
時刻が早くて他の編集者が不在の時間、編集長が自ら電話を取るという幸運がなかったら、新井は別の人生を歩んでいたかもしれませんね。
そして晴れて「採用」と言われたあと。
「じゃあ明日、11時にここに来てね」と。
早い! こんな面接で決めていいの? じゃあなんで半年も待たせてたのよ!? と思いましたが、
入ってみてその理由がわかりました。
単に「いいかげん」でした(笑)。
1983年当時のログイン編集部は、編集長でさえ30歳くらいで、株式会社アスキー、とくに雑誌部門(月刊アスキーとログイン)はまだ学生サークルのノリが強かったんです。「アルバイト募集」の告知も、本当に人手が足りない、アルバイト入れないとやっていけない、というのではなく、なんとなく「バイト募集って書いておこうか」くらいだったようです。そのため、募集も人事部とか通してなくて、編集部で誰が採用担当というのもなく、電話に出た編集長がのほほ~んと決めてくれたようでした。また、この告知はあまり威力がなかったようで、新井が入ったあと、これで応募>入社したスタッフかどうかは覚えていないくらいです(いたらごめん)。
アルバイトの仕事とは?
当時のログイン編集部のスタッフは、10人程度。編集のアルバイトはのちに編集長となる河野真太郎ともう1人で、この二人はアルバイトとはいえ、もう連載を持ってバリバリ仕事していました。そのほかのアルバイトというと、コンピュータのソフト、ハードの知識が豊富な東京電機大とか東工大とかの学生(たぶん)で、月刊アスキーと両方でバイトしていたようでした。仕事内容も掲載するプログラム関係とか”難しいこと”だったと記憶しています。
そんな編集部だったので、コンピュータも編集も知らない新井の仕事は雑用全般。電話番から始まってコピー取り、取材時の荷物運び、撮影スタジオへの機材の設置、執筆者宅への原稿の受け取り、たばこや飲み物、食べ物の買い出しなどなど。
編集部といえば夜型です。深夜の夜食買い出しも新井の仕事。深夜になるとスタッフの注文を取って、アスキーの青山・骨董通りから六本木のアービーズやウェンディーズ、麻布のストロベリーファーム、代々木のモスバーガーなど、バイクを飛ばして買い出しに行きます。
当時ログイン、アスキーの入居していたビルは、夜になるとシャッターが閉まり、その横の警備員に声をかけてビルに入れてもらうというシステムでした。しかしこの警備員、ひとりしかいないんです。深夜、ビルの巡回警備に出ると2時間くらい戻らない=人が出入りできないのです。
携帯電話がなく、シャッターは警備員しか開けられない……。
もうおわかりですね。
新井、買い出しに出る>警備員巡回して戻らない>新井、編集部に戻れない>ビル前で待つしかない>戻ると食べ物が冷めてて怒られる……。というわけです。今となっては笑い話のひとつですけどね。
編集部に入ってしばらくたつと、雑用以外に編集の仕事もさせてもらえるようになりました。ひとつはゲーム売上ランキングの集計。もうひとつはランキング上位に入ったゲームの原稿です。
ランキング集計は、協力してくれる全国のマイコンショップに電話して売上20だか30位くらいまでのランキングをもらい、集計することです。各店のランキングはファックスでもらい、集計は紙に「正」の字を書いて行っていました。まだネットもExcelもない時代とはいえ、非常にアナログです。今、こんなことをやらせたらパワハラ、いじめと言われるかもしれませんねー。
そして中退へ
ゲーム紹介の原稿はもちろん手書きです。最初は300文字程度の原稿で何回も直されて1日とか2日とかかかっていました。当時の上司にあたるスタッフは、新井が書いた原稿を自分で書き直したりせず、「ここが違う、ここはこうした方がいい」と最後までチェック、指導してくれる方でした。あるときは1ページの原稿で1週間書き直し続けたこともありました(ほかの仕事をこなしつつ、手が空いたら「その原稿」を書き直すのです)。
1週間もかかれば、書き直しだって20回以上になるわけですが、この方はそれでも「もういい、オレが書き直す!」と言わずに育ててくれた、新井の編集者人生の最大の恩師です(そのときは「もう勘弁してくれよー」と思っていましたけどね)。1980年代とはいえ、1ページの原稿に1週間もかけさせてもらえたのは、とてもありがたいことでした。
逆に、ある編集者からは、原稿チェックでボツのときに(修正すればOKのものも)、ハサミで切られたりライターの火で燃やされたりしました(てっちゃん、アンタだよアンタ!)。
※この話は編集部内では有名で、新井の後輩も聞いている人は多いと思うけど、実際にやられたのは新井ひとりだけですわ。
こうされると当然イチからすべて書き直しです。この時代、手書きでデータなんか残ってないから、内容を思い出しながら「新原稿」として書くわけですが、「シャレ・遊び」とわかってはいても、こればかりは「ムダに手間と時間をかけさせやがって」と思ってましたよ!
こう書いていくと、「そんなに編集部にいて大学は?」という疑問も湧くでしょうが、お察しのとおりです。幼稚園に続いて中退です(笑)。
親の手前、一応就職活動して、当時流行のシステムエンジニア(文系、コンピュータ未経験可でした)に内定ももらってたんですが、なにしろもうね、ログインの毎日が楽しいわけですよ。徹夜したって椅子で寝たって、やりたいことをやらせてもらえてお金までもらえるんですから。
PCゲーム黎明時代
さて、その後、月刊化したログインはゲーム情報をたくさん扱うようになり、新井はゲーム関係の担当になりました。前述のランキング、海外ゲームランキング、新作ソフトなどです。
ランキング記事作成は前記の感じとして、新作ソフトページはなかなか難しいものがありました。1983年当時はまだ発売日を明示しているメーカーが少なかったのです。日本ファルコム、T&Eソフト、光栄マイコンシステム、ハミングバード、シンキングラビット、クリスタルソフト、BPS、スクウェア……と、”有名”なメーカーが出始めてはいましたが、新作の発売日は確定・公表していない時期で、秋葉原のショップに行って最近入荷したという新作を買ってきて掲載することもあったんです。
発売されるゲームが増えていくと、さすがにそんなシロウト的なやり方ではしょうがないので、広告や編集部にあるゲームのパッケージからメーカーリストと連絡先電話番号のリストを作って、片っ端から連絡し、新作の発売予定を聞いたり資料を依頼したりし始めたのです。
しかし、多くのゲームメーカーはまだ作ることに忙しく、また規模が小さいところが多かったため、広報の担当ってものがなく、直接社長さんが対応してくれたりはしたのですが、「できあがったら情報を出す」とか「特に資料はない」ということが普通にあったのです。
ログインも最初は新作ゲームページが2ページ程度しかありませんでしたし、他の難しいマイコン雑誌にはゲーム紹介ページがなかったから、メーカーとしても雑誌に広告は出しても記事に「してもらう=宣伝」という発想はまだ少なかったんでしょうね。その後、ログインだけでなくポプコムやコンプティーク、テクノポリスといった雑誌がゲームをたくさん掲載するようになると、ちゃんと広報担当という役ができ、掲載用の資料も用意していただけるようになっていきました。
※ここでちょっと自慢。「ゲームソフト発売日スケジュール表」はログインが初めて作成、毎号連載を始めたはずです。最初の頃は「開発スケジュールが流動的で発売日が公表できない=決定できない」というメーカーも多かったのですが、だんだん「ちゃんとした業界」になっていくにつれ、スケジュール表の確度も上がり掲載ゲーム数も増えていきました。
新作ゲームページが増えはじめた頃は、まだ後輩が入っていなかったため、新井がほぼひとりで全国のメーカーを担当していました。北海道から九州まで、画面撮影用のカメラと暗幕を持って駆け回っていました。いただける資料だけでなく開発者に直接取材させてもらい、貴重な情報をもらったり、開発中の画面を撮影させてもらったり。そして編集部に戻っては徹夜で記事を書いて、と。たぶん他誌の編集者も同じような生活だったんでしょうね。
当時は他社のPCゲーム雑誌の編集者同士で飲むこともありました。これはファルコムのハワイ旅行に同行した時ですが、なんと現地に行ってから「編集者で座談会やって、ハワイ滞在中に8ページの原稿を完成させてね!」と言われて、みんなハワイで徹夜して座談会>テープ起こし>原稿書きしたものです(笑)。
その後、記名記事は「ほえほえ新井」のペンネームで執筆しつつ、ゲーム以外の記事も担当するようになりました。そして編集部が大きくなり後輩も入り、メーカー担当を振り分けるようになりましたが、デスク、副編集長、そして編集長となっても、メーカーに行って開発者の方と直接お話しするのは、自分にとってとても大切な仕事でした。ログイン時代にお付き合いいただいたゲームメーカーの皆さん、本当にありがとうございました。
ちょっとだけログイン以降。
1995年4月、新井は『サテラビュー通信』兼『プレイステーション通信』編集長に異動しました(サテラビュー、わかりますかねー?)。
翌年、縁あってメディアワークスに行ったあと、インプレスの『インターネットマガジン』に転職。まだISDNが始まったばかりのインターネットの現場をエキサイティングに経験しました。
その後、いろいろあってまたアスキーへ。『月刊ニンテンドー64+』の創刊を手伝ったのち、『ファミ通ブロス』へ。ここではコミックの編集とカードゲーム/イベントの運営とかグッズの製作・販売などを新しく覚えました。
ブロスのあとは萌え系雑誌の『マジキュー』とか『ファイナルファンタジーXI』や『ラグナロクオンライン』のアンソロジーコミックとかゲームSNSの『efigo』とかコンシューマーゲームの書籍とかなんとか、いろいろとやっていました。その間、アスキーはエンターブレイン、角川、KADOKAWAに変わりましたが。
2015年にKADOKAWAを退職したあとは、iPhoneやAndroid端末やゲーム、ラジコンやバイクなどの原稿を書いたり、ドローンのインストラクターをしたり、依頼を受けてドローン空撮をしたりしてます。
そして今のメインは、樹木の維持管理、剪定のお仕事。
新井は今日も日に焼けながら、地下足袋履いて、元気にチョキチョキしています(笑)。
次回は編集者ではないんですが、ゲーム雑誌業界ならOKということなので、荒井清和さんにお願いしました! テキストだけじゃなくて『べーしっ君』のマンガ、描いてくれないかなー。
自己紹介
1960年東京生まれ。ログインをはじめ、サテラビュー通信、プレイステーション通信、ファミ通64+、ファミ通ブロス、マジキュー、Quarterly pixiv、その他で編集長を歴任。現在は樹木維持管理を行いつつ、ライター兼ドローンカメラマンなどを少々。バイクでダムを巡って空撮するのが最近の趣味。