はじめまして、四井氏からバトンを手渡された西澤と申します。またの名を「川から流れてきてあたったら痛いモノを2時間描かせる男」でございます。w
紹介者の四井氏とは1996年にサターン版「ウィリーウォンバット」を開発したときに知り合いました。3Dでグルグル回るマップとレベルデザインを5人の企画屋さんで手分けして作成した開発プロジェクトで、8つあるエリアのうちの2つを彼が担当したと記憶してます。このサイトにちゃんと名前が載ってますね。鶴田さんとtksさんも一緒でした。
その後、彼とは仕事やら遊びやらで何度かご一緒させていただき、現在に至ってます。歌舞伎町で飲み歩いたのもいまや懐かしい思い出です。クリエーターにもいろんなタイプのひとがいますが、彼の場合はアート志向の強いタイプだと思います。企画書の挿絵も自分で描いちゃうし、文章もうまいし、論理より感性が優先するという印象です。かなり多趣味で、ひとりで山歩きもするみたいだし、最近はボルダリングにハマってるようです。そういえば休日に遊びに行った高尾山で彼とばったり遭遇してびっくりしたというエピソードがあったりします。
さて、この企画はゲームクリエーターがゲームをつくるに至るまでとその後について、当時影響を受けたであろうサブカルチャーなどを織り交ぜながら自伝的に紹介するということなので、今回は私の少年期からゲーム業界に入るまでの話を書こうと思います。読者の中心は、子供時代に駄菓子屋さんでゲームに熱中した世代ではないかと想像してますが、これからのゲーム業界を担う若いひとたちが興味を持って読むかもしれないので、双方を意識して書いてみます。
子供の頃は、いわゆるTVっ子でした。1970年代のTVアニメやバラエティ番組をみて育った世代です。ウルトラマンや仮面ライダー、マジンガーZ、忍者赤影、キカイダー、花のピュンピュン丸、ロボコン、もーれつア太郎、アルプスの少女ハイジ、ムーミン、魔法使いサリー、といったあたりをリアルタイムでみてました。とくに好きだったのが、毎日放映されてたハンナ・バーベラの短いアニメです。チキチキマシン猛レースを始め、スーパースリー、怪獣王ターガン、大魔王シャザーン、ドボチョン一家の幽霊旅行などなど。どれもコミカルな主題歌が印象的で、いまでもたまに口ずさみます。
漫画も人並みにたくさん読みました。週刊誌は少年ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオンを友人と貸し借りして読んでましたし、単行本も友人宅で読みふけったりしてました。学校の昼休みに教室でひとり「漂流教室」を読んでいて、マリリンモンローのロボットが主人公を追いかけるシーンが怖くて怖くてたまらなかったことを覚えてます。この頃に好きだった漫画をいくつか挙げると、ドカベン、ブラックジャック、1・2のアッホ、がんばれ元気、少し後になると戦場まんがシリーズ、エリア88、超人ロック、といったあたりでしょうか。とくに好きだったのが少年ジャンプで連載していた「ブルーシティ」です。
細菌兵器で人類が絶滅し、海底都市に残されたわずかな人々が新しい未来を築こうとするお話で、海洋生物の形をしたメカニックデザインがとてもかっこ良かったのです。星野之宣の作品はどれも好きで、今でも蔵書として持ってます。「妖女伝説」や「2001夜物語」は自分の中のバイブル的な存在かもしれません。
中学生になると、趣味がだんだんと本格的になってくるわけですが、私の場合は「映画」でした。中1のときに映画のチラシを集めている級友がいて、私も洋画のチラシを集めるようになり、映画館へ行っては次回上映する映画のチラシをガバッと・・・1枚ではなく100枚くらいをガバッと頂戴してきては学校で仲間と分け合ってました。たしか蒲田にあったチラシ専門ショップにも行ったりして、ミクロの決死圏のチラシがウン万円で売ってたのを覚えてます。
当然のことながら映画も観るようになり、初めて自分の小遣いで観た映画が「カサンドラクロス」でした。1976年ですね。パニック映画とは思えない美しいテーマ曲はいまでも頭の中で流れることがあります。
映画の月刊誌「ロードショー」を買って読むようになり、小遣いのほとんどを映画に費やすようになります。映画鑑賞とチラシコレクションに熱中し、さらにはチラシのパロディ版をつくったりもしましたね。新たにゲットしたチラシはクリアファイルに入れてコレクションするのですが、購入直後のクリアファイルには黄色い台紙が入っていて、かさばるのでこれを取り除いて使います。すると不要な黄色い紙が大量に発生するので、これに映画チラシのパロディ版を描いて遊ぶようになりました。タイトルや出演俳優名、キャッチコピー、あらすじなどをおもしろおかしくひねって構成し、周囲のひとに見せて笑わせてました。手書きチラシづくりはこの頃に上映した映画を対象にしてましたから、ロッキー、大統領の陰謀、タクシードライバー、サスペリア、エアポート77、キャリー、人間の証明といったあたりですね。
そして1978年、映画少年はあの偉大な2つのSF超大作と出会います。「未知との遭遇」と「スターウォーズ」です。偶然にもこの2つの映画が同じ年に公開されたことは世界を変えるのに十分な出来事だったのではないかと思います。14歳の多感な少年がこれに影響を受けないわけがありません。それまでに観ていた映画とは比較にならない、とてつもないインパクトがありました。CG映像バリバリの今の映画を観て育った若いひとにこの衝撃を理解してもらうのは難しいかもしれませんが、これまでに見たことのない映像のオンパレードだったわけです。想像を超える巨大な円盤が出現するシーンや、X-WINGが溝の中を飛行する戦闘シーンは、少年の目に焼き付いて離れなくなるほどの衝撃を与えたのです。スターウォーズは次々と新作が製作されているので知らないひとはいないと思いますが、未知との遭遇を知らないというひとはぜひ観て欲しいですね。ドゥニ・ヴィルヌーヴも、J・J・エイブラムスもこの映画に大きな影響を受けてます。
世の中がスターウォーズブームに湧いている頃、感動冷めやらぬ私は来る日も来る日も「STAR WARS」のロゴをノートに描いてました。たぶん何百と描いたと思います。あのロゴがかっこよく見えて仕方がなかったんですね。京都に修学旅行に行った際に清水焼の湯呑みをつくったんですが、そこにも「STAR WARS」のロゴを描いたほどですから、よっぽどです。おかげでフリーハンドのレタリングが上手になりました。余談になりますが、つい先日もamazonでロゴフィギュアなるものを見つけて衝動買いしちゃいました。やっぱりカッコいいです。この商品を企画したひとはセンスいいなあと思います。(写真参照)
映像だけでなく音楽についても触れておくと、ご存知のとおり、この2つの映画の音楽は巨匠ジョン・ウィリアムズが作曲してまして、スピルバーグが監督する映画のほとんどを彼が担当してることでも有名です。映画の映像は時代と共に古くなることがありますが、音楽は色褪せることがないんですよね。いま聴いてもあのときの感動がよみがえってきます。この偉大なサウンドトラックはいつもiPhoneに入れていて、今でもたまに聴いたりします。スターウォーズのテーマももちろん好きですが、未知との遭遇のエンディングに流れる曲が超絶好きで、聴いてると胸が熱くなってきます。2年程前にSNSで「私を構成する9枚」というのが流行ったのをご存知でしょうか。9枚のアルバムで自己紹介するあれです。そのときに私が選んだ9枚には、やはりというか、この2つのサウンドトラックが含まれているんですね。(画像参照)
そして翌年、「スペースインベーダー」の熱狂的なブームが巻き起こります。TVゲームが社会現象にまでなったのですからスゴイことです。もちろん私も思い切りハマりました。ゲームセンターのみならず、ゲーム喫茶なるものが街のあちこちに現れて、あのピコピコ音が純粋な少年たちを誘い込みます。とはいえ、中学生が自分の小遣いを1プレイ100円もする機械に無尽蔵に注ぎ込むことなどできるはずもありません。それでどうしたかというと、電子ライターでコイン投入口に電子を当てると機械が誤作動してクレジットが加算されるという噂を聞きつけ、恐る恐る友人たちと実際にやってみました。成功することもありましたが、店のひとに見つかると出入り禁止になるし、筐体にこれの防止装置がつくようになったので、すぐにこの技は使えなくなりました。次に使った技が◯◯◯をハンマーで叩いて100円玉と同じ大きさにして使うという荒技です。犯罪なので良い子は決してマネしてはいけません。これも一度やった店には二度と行けなくなるのであまり良い方法ではありませんでした。が、そこまでして、インベーダーゲームをやりたかったわけです。当時の熱狂ぶりが伝わるでしょうか。そういえばブームたけなわのときに「DISCO SPACE INVADER」というシングルレコードが発売されまして、これも買った記憶があります。それほど当時のインベーダー熱はすごいものでした。
そういえば、2年ほど前にスペースインベーダーの作者、西角氏のロングインタビューがネットに掲載され、興味深く読ませていただきました。ハードもソフトもすべてひとりでつくったということにも驚きましたが、いくつものハードルを乗り越えて完成したという開発経緯を知って、ちょっと感動しました。このひとの努力がなければ今の私はなかったのかもしれない、と思うと非常に感慨深いものがありますね。
伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】
伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【後編】
世間では次第にインベーダー熱が冷めていきますが、その頃には各社から新しいゲームが次々とリリースされ、ゲームセンターはわりと賑わっていたと思います。おそらく出せば売れる時期だったのではないでしょうか。私は友人たちと一緒に定期的にゲームセンターで遊ぶようになりました。この頃から「ゲームで遊ぶ」というのが私の生活の一部になったのではないかと思います。
ゲームセンターが不良の溜まり場だったというのはあながち間違いではなくて、当時深夜まで営業してたのはゲームセンターかミスタードーナツくらいしかなく、時間を忘れて友人たちと遊ぶにはもっとも適した場所でした。風営法が施行されて深夜営業ができなくなるまで、子供以上大人未満の少年たちはゲームセンターが憩いの場だったのです。
高校に進学すると、TVアニメ「機動戦士ガンダム」が放映されて、これにハマりました。放映時刻に間に合わないと嫌なので、夕刊の新聞配達のバイトを辞めました。サントラのLPレコードも買いました。文化祭では等身大のアムロの立て看板をつくりました。これまでの子供向けロボットアニメとは違い、未来の戦争をリアルに描いていたことと、兵器として描かれたロボットのデザインが優れていたことが、青少年のいたいけな心を鷲づかみにしたんだと思います。ガンダムに登場するビームサーベルやニュータイプといった設定は、スターウォーズでいうところのライトサーベルであり、ジェダイの発展系なわけで、日本のアニメ業界にもスターウォーズに感銘を受けたひとたちがいるんだなあと思うわけです。そのスターウォーズも黒澤映画や日本のアニメの影響を受けているといわれてますし、そうやって感動が次なる感動を引き起こす創造の連鎖があちらこちらで起きてるんですよね。
ガンダムに熱中しながらも、ゲームセンター通いはずっと続いてました。当時は部活もやっていて硬式テニスなんぞをやってました。学校帰りにゲームセンターで「平安京エイリアン」を遊んでいるときに、バイトして買ったばかりのHEAD製ラケットが盗まれてしまうといったエピソードもありました。1980年ですから、パックマンが誕生した年ですね。クレイジークライマーや、ヘッドオン、シェリフ、ルナランダー、バトルゾーンなどをプレイしてました。
この頃に観た映画にも触れておくと、1979年のエイリアン、マッドマックス、カリオストロの城、1980年の地獄の黙示録、1981年のレイダース失われたアーク、マッドマックス2、といったあたりが強烈に印象に残っていて、その後の創作活動に少なからず影響してると思います。なかでも「マッドマックス2」の映像には度肝を抜かれました。一体どうやって撮影してるんだっ⁉︎と叫びたくなるようなアクションシーンの連続で、監督のジョージ・ミラーはただ者じゃないと思ったものです。2015年に公開された「怒りのデスロード」も彼じゃないと撮れないびっくり映像は健在でしたし、アクション映画が減ってきた昨今、もっともっと彼に作品を撮ってほしいと思いますね。最近の映画はCGに頼りすぎだと感じることが多く、つくりやすいのは理解できるんですが、映画ファン的にはちょっとやきもきしてるところもあり、本物のアクション映画とはこういうものぞ!みたいな映画を撮り続けて欲しいです。
この時期に私が観た映画は、その後の自分の人生に大きな影響を与えていると思わずにはいられないのですが、このことは私だけに限った話ではなく、この頃の大ヒット映画の多くが、その後の映画やゲームの製作者に多大な影響を及ぼしていると思うのです。様々なジャンルの映画の原点がこの時期にあるんじゃないかと思うほど、画期的なアイデアや表現方法がたくさん生み出された時期だと思います。秘宝を求める探検者とか、人間そっくりのアンドロイドとか、腹を食い破って何かが出てくるとか、今や定番となった演出の「最初」がこの頃に数多く登場しているのではないでしょうか。これからエンタテイメント業界を志そうとする若いひとには、ぜひこの時代の映画をたくさん観て欲しいです。
高校を卒業すると、ゲーム会社の開発部に就職しました。株式会社テーカン、のちのテクモです。高校3年のときにここでアルバイトをしていて、その流れで入社したんですね。入社直後、最初に携わったプロジェクトがアクションゲーム「スイマー」です。企画とドット絵を担当しました。このときに人手が足りなくてアルバイトを募集することになり、鶴田さんと出会うことになるわけですね。小ネタですが、ゲームのステージスタート時のジングル曲は、映画「地獄の黙示録」の挿入曲「ワルキューレの騎行」が元ネタです。「川のぼり」つながりということで。
おそらくは、社会人になりたてのこの頃が一番ゲームセンターに足を運んだ時期だと思います。ギャラガ、マッピー、ゼビウスなどが大ヒットしたナムコ黄金期と重なりますね。給料をもらえるようになり、好きなだけゲームを遊べるようになったわけですから、ほぼ毎日行ってたんじゃないかな。
錦糸町のゲームセンターで遊んでいるときにスカウトされたというエピソードに始まって、その後のゲーム開発のあれこれについては、BEEP Extra Magazineの取材で詳しくお話したので、ここでは割愛しますね。(編集部注:後日公開予定)過去の作品履歴については、別表にまとめましたのでご覧ください。
そういえばコンピュータの話をしてないですね。
私が初めて触ったコンピュータは、TK-80だったと思います。秋葉原のラジオ会館にあったNECのBit-INNに何台か置いてあって、そこで何かしてましたね。いったい何をしてたんだろう?
それとほぼ同じ時期に触ったのが、小型のプリンタと一体になった卓上計算機です。Olivettiだったか、ブラザーだったか(メーカーが思い出せないのでネットで検索してみたんですが見つかりませんでした)の製品で、小さな白黒液晶と英字キーがついていてBASICが動作する代物です。コンピュータというよりは電卓に近かったですね。高校の物理部にいた級友が教室でこれを使っているのをみて、少し借りて遊ばせてもらいました。彼にBASICの文法を教えてもらい、FORループで1から9までの数字をプリンタに印字できたときにはちょっとした感動がありました。これが生まれて初めてのプログラミング体験です。このときにコンピュータというものに興味が湧いたんですが、高価なものなので手が出せませんでした。憧れのApple-IIがたしかに40万円くらいだったと思います。当時はまだパソコンという言葉さえない時代です。スティーブ・ジョブズがアップルコンピュータを設立したのが1976年、ビル・ゲイツがマイクロソフトを創業したのが1977年ですから、まさにパーソナルコンピュータの黎明期で、パソコンブームが巻き起こる前夜のような時期だったわけですね。このときにパソコンを買っていたらあるいは達人プログラマになる道を歩んでいたかもしれません。が、この頃の私は自転車旅行を本格的に始めていて、バイトで稼いだお金はそっちに使ってました。なので、結局パソコンは買わなかったんですね。この時期にパソコンを買った人とそうでない人で、その後の道が大きく分かれたような気がします。
その2〜3年後、ゲーム業界に入ってからプログラムを覚えました。言語はZ80アセンブラです。ほぼ独学で、他人のコードを読んで理解していきました。自分が描いたドット絵を自分自身で動かしてみたいと思ったのです。自分の書いたコードが製品の中で使用されたのはテーカンからユーピーエルへ転職した後になります。「マウサー」のサウンドプログラムがそれです。その後は富士通のFM-8でキャラクターエディタを開発し、「NOVA2001」のプログラムをひとりで担当するなどして、本格的にコードを書くようになります。
いま振り返ると、あの頃に「Mac」に出会っていたら少し違っていたかもしれないと思うことがあります。PC-9801やIBM-PCなどインテル系のパソコンはプログラマ寄りの道具だと思うんですね。使いこなそうとするとプログラミングをする方向に流れます。一方、Macはアート系のアプリケーションが充実していて、プログラミングに偏らずに「何かをつくる」ための洗練されたプラットフォームだったような気がするのです。あの時代に使ってないので憶測ですが、Macユーザになってから十数年経ったいま、プログラムを自分で書かないやり方もあったのではないか、と感じることがあります。その時間を違う方面に使っていたら、あるいはもっと尖ったものをつくっていたかもしれない、などと空想してみるのです。私にとってのコンピュータは個人の力を増幅する道具であり、可能性がいろいろ飛び出してくるおもちゃ箱のようなものです。プログラミングそのものも嫌いではありませんが、あくまでもゲームをつくる手段であって目的ではないんですね。近年、Unityを使ってゲーム開発するようになってから、その思いは強くなった気がします。なんせコードを1行も書かずに絵を動かせるんですから、便利な世の中になったものです。プログラミングに時間を費やすことなく、絵をどのように動かすか?という演出のほうに時間を割くことができる時代になったわけですね。当時のMacもこれに似た道具だったのではないか?と考えてしまうのです。
自分はエンジニア寄りのゲームデザイナーにカテゴライズされると思ってまして、若いときに身につけたプログラムの知識は、ゲームの開発中に遭遇する様々な問題を論理的に解決するのに非常に役立ってくれてます。プログラマーとのコミュニケーションも取りやすいですしね。けれど、近い将来、そういう知識がなくても自分の手で思うがままにゲームをつくれる日が訪れるのではないかと思うのです。私の場合は、デジタルテクノロジーが急速に発展した時代背景があったことが、自分のスキルセットに影響したわけですが、これからゲームをつくろうとする若いひとには、ゲームだけでなく、いろんなことを体験して欲しいですね。コンピュータの前に座ってばかりいないで、映画を観たり、芝居を観たり、スポーツや旅行でもいいです。それがゲームをつくるときの「源泉」になると思うのです。
10年ほど前から海外でレトロゲームがブームになり、海外のメディアから取材を受けることが増えたのですが、インタビューの中でいつも決まって聞かれることがあります。「このアイデアは何にインスパイアされて発想したのか?」という質問です。実はその答えが冒頭に紹介した私の子供時代にあります。子供の頃にみた漫画やアニメのエッセンスが少しずつ蓄積して貯まっている「井戸」のような場所が自分の中にあって、ゲームに限らず、何かアイデアを考えるときには、そこから相性の良いものを取り出すような感じなんですね。何年も前から漬けておいた漬物を手探りで取り出すような、とでも言えばいいかな。何かを発想するときって、直接的に影響を受けた何かを元に即興でおこなっているのではなくて、過去に影響を受けたいろんなものが先にあって、それらが混じり合ってできたものから取り出す、というほうが表現として適切なのではないかと。
アイデアの源泉となるこの「井戸」は誰にでもあると思うんですよ。酒や醤油と同じで、そのひとが見たものや感じたことが積み重なって独自の発酵をして、独自の味、つまり独自のアイデアになるんじゃないかと思うわけです。そういう意味で、子供の頃の体験というのはとても重要だと感じます。今からでも遅くないので、残業ばかりせずに仕事の帰りに映画館に寄るとか、美味しいものを食べるとか、いろんなひとと話すなどして、ぜひぜひ創造の世界を膨らませてください。
私の過去の作品は、アーケードアーカイブスやセガ・エイジスからリリースされ、プレイできるものがいくつかあります。最近では「忍者くん 魔城の冒険」がSWITCHで遊べるようになりましたし、「Wonderboy Dragon’s Trap」のHDリメイク版のパッケージも発売されてます。古いゲームソフトはハードウェアと共に消えゆくものと思ってましたが、ちゃんと残っていくんですね。
それでは最後に、次の執筆者を紹介します。
アーケード版「ワンダーボーイ」の開発を始めるときにセガ社から「デジタイザー」というグラフィックツールをお借りしたんですが、それをトラックで運んできてくれたときからの長い付き合いで、文字の無い企画書を書くことで有名な「麻生さん」です。・・・と言いたかったのですが、今回はパスさせてください、ということで、麻生さんから適任の方を紹介していただきました。
アルカノイド、ニンジャウォーリーアーズやカダッシュなどの作者、ONIJUSTこと辻野さんです。直接の面識はないのですが、アルカノイドは当時かなりプレイさせていただきましたので、紹介できて光栄です。では次回、どうぞご期待ください!
西澤龍一の作品履歴(年度順)
テーカン時代
1981年 スイマー(AC)
ユーピーエル時代
1983年 NOVA2001(AC)
1984年 忍者くん 魔城の冒険(AC)
1985年 レイダース5(AC)
ウエストン時代
1986年 ワンダーボーイ(AC)
1987年 Jaws the Revenge (NES)
1987年 モンスターランド(AC)
1988年 モンスターレア(AC)
1989年 Wonder Boy III: The Dragon’s Trap(SMS)
1990年 オーライル(AC)
1992年 モンスターワールドII・ドラゴンの罠(GG)
1993年 時計仕掛けのアクワリオ(AC)
1994年 モンスターワールドIV(MD)
1996年 ダークハーフ(SFC)
1997年 ウィリーウォンバット (SS)
1999年 ミラノのアルバイトこれくしょん(PS)
フリーランス時代
2016年 ユバのしるし(iOS/android/PC)