【略歴】
四井浩一
【職業】
フリーランス。ゲーム企画・シナリオ・デザイン・映像演出。
【オリジナルゲーム】
「ストライダー飛竜」「ノスタルジア1907」「チャタンヤラクーシャンク」「キャノンダンサー」「鈴木爆発」/他
ゲームといえば、なんだっけ。
水を入れたばかりの田んぼに耕運機で乗り出し、耕運機に引かせた板の上に両足を踏ん張って水中の泥床を平らにならしてゆくことだったろうか。
やせっぼっちな小学生の体重ではいまいち捗らなかったはずだが。
バタバタ響くクボタ発動機で動く両輪は、ハンドルについた片方のレバーを握るとそっちだけ車輪が止まって旋回するって仕様。
あるいは秋、脱穀を終えて積みあがった稲の山で宙返りしたり、トンネルを掘ったりすることだったっけ? まあ、こじつけるなら、アクションとビルド系。
うちは、百姓でしてん。
丘の多い地域で、丘の隙間に細長い農耕用の池があり、その池に塞がれる形の、細いどん詰まりに、田んぼがある。谷底。
稲刈りをして穂を垂木に干し、民芸館なんかにあるような木製の機械で脱穀して、穀米を袋に詰め、一俵には満たないけど小学生時分には重い袋を担いで、丘の坂を登る。
男という字は田んぼを背負う力と書く。などと言いくるめられもって。
田んぼの面積は、ちょうど一家が一年食える程度のもので、売るほどの収穫はない。それでも食うに足りてればいい、てことか、うちの祖父祖母は、生涯、田んぼをやって暮らしとった。
丘の斜面に細々とした畑や竹藪もあったところで、現金収入らしいもんは、とんとない。
家の誰もカネ稼いでないんだから、今で言えば立派なヒキニート家族。
うろ覚えでは、台所は半分土間で、カマドがあった。さすがに、記憶がちゃんと付く頃には、撤去され、板間になってた。
それでも、フロはまだ五右衛門風呂であった。
夕方、風呂を沸かすのが、俺ら子供のロール。
風呂釜の下に薪をくべ、時折、竹を放り込んで爆発具合を眺める。
未明にカブトムシの幼虫を掘り起こし、昼はトカゲを追い、夕はザラザラした手触りのヘビを振り回し、鶏小屋から卵を回収し、春のアケボノにタケノコを掘る。祭事にうるさく、暮れには餅をつく。
逃避的な幻想からか、ある意味、理想郷的なライフスタイルのひとつに挙げられそうだが、稲の山に飛び込んだあとにゲス板に乗って入るフロなど、もみ殻のせいで痒いを通り越して猛烈に痛いばっかりだ。金輪際、百姓はごめん。
どれほどの田舎のハナシかというと、それほどでもなくて、日本で二番目の経済都市大阪の近郊での話なんだけど、その頃、そんな辺りで、そんなもん。
日々の風景は、まったく現代ではなくて、中世時代にほど近く、中世の生活風景なんて、古代とそれとだって大差ない。
稲作の合間に狩猟採取。
祭りの夜店に、ヒヨコ釣りというゲームがあった。箱の中でひしめく黄色いヒヨコを釣り上げる。うまくできたら景品にヒヨコもらえる。
釣って帰ったはいいが、でかくなりすぎて困った団地の子が、学校に寄越した。
クラスみんなで名前を付けてかわいがるのだが、ニワトリだって猛禽。誤解されているがやつらは立派に飛ぶ。小学生ごとき一撃で仕留め得る。学校で手にあまり、うちで引き取ることになった。洗濯物はためく裏庭で虫をつついていたが、そもそもがゲームリワード仕様の、ひ弱なコなので、若くしてお亡くなりになられた。
「かわいそう!お墓作ってあげた?」クラスで聞かれたんだけど、獲得アイテムを土に埋めるプレイヤーはいないだろう。夕べのうちに我が家のすき焼きになっている。
とても美味かったとは言えなかった。
どうも世間と文明のステージがちがった。
うちが近代化したのは、父が、勤める。というモダンな振る舞いに出たからだ。
父は、春日丘高校の夜間部を出て、地方公務員にならはった。
聞くところによると、夜間授業に出かけると言って家を出て、同校のまっとうな昼の部の女子高生宅に通っていたという。職を得ると直ちに嫁にした。
母は京都生まれの人で、母の父ちゃんは関西屈指のインフラ企業の人であった。黒部ダムを発注したとこである。
昭和のそれとなく良い向きの文化で育ったお嬢だったのではあるまいか。
このお嬢は、父にたぶらかされて、山田村の農家の嫁に来てしまった。
ここは中世時代である。封建時代真っ盛り。
長男指導の権は、早々、明治生まれの百姓爺婆に取り上げられ、わかりやすい反動でか、母は次男を父は末娘を猫っ可愛がりした。
結果は明瞭、兄はわりかし規律正しく育ち、勉強もできたが、俺と妹は壊滅的にバカな子に育った。
ともあれ、家族七人の中で、唯一、父が街で勤めている。つつましくも、ありがたいことである。
カマドの代わりに、電気炊飯器が置かれ、瞬間湯沸かし器が壁に吊るされた。
年に一度、外食てな風習が芽生えた。それで出掛けると、グラタンというものが食えるのが楽しみ。
梅田の映画館にも出掛けた。シネラマスコープ。スタンリー・キューブリック<2001年宇宙の旅>。当時、俺5才。父母もまだ若かったんだろう。正気の沙汰ではない。
人類による初の月面着陸は、そのシネラマ映画のちょい後で、すでに開発された月面基地を体験として完璧に目撃していた俺としては、この現実世界はどうも疑わしい。と思わざるを得なくなった。言葉は後追いになるにしても、抽象的にであれ、ガキほど哲学的に考えてるもんでしょう。
現実より虚構が勝る狂気の攻勢は、さらなる追い打ちをかけてかかる。
近所に突然、未来都市が出現した。マムシしかいない裏の竹藪だったとこ。
70年大阪万国博覧会は、大規模なサイケデリックさと、塔の野蛮な造形で、子供の勘違いを助長した。夢まぼろしへの楽天性を決定的に肯定した。大人にあるまじき振る舞い。
イメージというものは、人の人生をぶち曲げるだけの威力がある。
このあたりから、なにか穏便でない初期衝動を埋め込まれたに違いない。呼吸と一緒で、吸ったものは、いずれ吐き出すことになるものだ。
感動をコピペするのは、人間の本能のひとつ。
ボーリングというのが流行る。無邪気な父母は、子供を引き連れて出掛け、重い球を投げる。順番待ちに退屈した俺らは、ブラウン管で明滅する光点をボリュームスイッチで操作する。<テーブルテニス>は、稚拙なゲームだが、そのそぎ落とされた稚拙さが魅力だった。
稲作も小学校も、複雑が過ぎるのだ。
兄とはゴッコ遊びをよくやった。電池が二本あれば、それがハンドルになって、戦車でも宇宙船でも操縦することができて、ふたりでいろいろなところへ行ったが、たいてい最後はルールで喧嘩になった。マルチプレイは難儀なものです。
祖父が亡くなると、祖父以下を養った田んぼも相続税物納で無くなった。なかなかの幕引き。以下子孫は、なにかしら現金を得るよりほか、生存の方法がない。
映画<スターウォーズ>の大ヒットで、ささやかながらSFブームが起きた。バブル前には沈降したように思うが、そのささやかな時期に、スターログという雑誌が発行されていた。
SF映画や特撮技術、海外の色彩豊かなファンタジーイラストが満載。
成績は落ちる一方。妄想は、夏草のようにはびこり放題。
そんで、<スペースインベーダー>ブーム。はじめは、スーパーの片隅で見た。
<テーブルテニス>のスタイリッシュさはなく、なんとなく軽蔑していたのだが、人に並ばれるようになると尻に立ちたくもなる。
テーブル筐体になって、喫茶店に置かれるようになると、客の少ない店を自転車で探して巡るようになった。しまいには、駅前にインベーダー専用の大型店舗ができた。
数分の快楽のために現金を払う。ということに、中世時代の子らしく罪悪感があったのが、これでワヤ。
高校では、絵を描いていた。美術部だが、先輩勢は、妙に男ばかりで体育会系。
真に技量を問われる描写は嫌い。油絵具をはけ口に、妄想に耽溺す。
最近はじまった<機動戦士ガンダム>がお気に入り。夕方、部活をサボって帰って観る。
アニメや創作で話が合うのはごく少数の女子だけで、ファンタジー系の小説とも言えないものをノートで回していたが、もちろん、隠れながちに。
日本でファンタジーが市民権を得るのは、<ドラゴンクエスト>以後である。
それは強烈な嗜好転換で、それ以前の男子たるもの、現実に即した威風あってなんぼであった。実は少女漫画の方が好き、とかバレてはクラスでやってけない。
まったく本の読めないバカのはずだが、なぜかトールキンの<指輪物語>はすらすら読めた。
必然、頭の中では常時、ふわふわと冒険をしていたが、これについても、話し合える相手のいる時代ではない。
放課後の校舎の階段を登山部の部員たちが、昇り降りしていた。縦走訓練なので、背負ったキスリングには重りが入っている。
あれはイヤだな、と軽々しいペインティングナイフで絵具をこね回していたくせに、なぜか彼ら待望の夏合宿にだけ、ちゃっかり付いて行った。
北アルプス、剱岳。
気分はホビット。剣沢のテン場から見上げた別山の上に月があり、別の惑星にいるみたい。
目の前の剱岳は、八つ峰を背に夕日を浴びている。
山は毅然とし、俺の人生は危うい。
絵ばかりが描きたいわけではなかった。
ちょっとだけ荒唐無稽な文章を書き、ちょっとだけ色彩豊かな絵を描き、ちょっとだけ設計的で、世界に埋没させるような冒険的で体験的な、なにか新しいものを次々生み出してゆくような、そのような面白おかしい仕事はないものか。
どう考えても、そんな都合の良い仕事は、世の中に存在しない。
ラジオでは、YMOが流れていた。悲しかった。
キャンバスに空想の風景を描きながら、風景その左右になにがあるのか、そのずっと奥になにがあるのか、歩いて行って観ることができないのが不満だったので、大学では、映画を専攻した。
卒業制作で、60分のドラマを作った。劇場上映にも立派に耐える16ミリ。
普通は、8ミリフィルムで、なんなら3分程度の作品でも良いものだ。
若造らしい完璧主義で、伝統的で完成度が高い作品。そういうことだけに価値を観ていた結果なのだけれど、東洋現像所に未払いの現像費がたんまり残った。
学生映画とは言え、映画一本をまとめあげようなどとすると、まちがいなく途中で気がおかしくなる。プロでも、ゲームの10本目あたりくらいまでなら、もれなく命が削ぎ落される気分を毎度味わってきたはずだ。
卒業間近の卒業制作でそれ期。就職活動なんて思いもよらない。
就職雑誌をぱらぱら開いて、一番給料の高かった、ゲーム会社てところに面接に行った。
デザイナーズブランドのスーツを着た年端の変わらない若い面接官に「自分ナマイキやな」と言われて合格した。
こっちはこっちで、映画青年気取りでサングラスをしていたものだが、なにか誤解があったのだろう。とくに目が悪いわけではないと気づかれたのは就業一年後である。
ともあれ、俺も街の勤め人。机があてがわれた。
机には、透明なビニールシートが敷かれていて、用務のメモとか、好みの写真だとかが挟み込める。縁にはZライトがついている。隣に、ドットが打てるPCがあった。
続けて映画が作りたかったのだが、やりだしたら、ゲーム作りは映画よりも面白い。
以前には存在しなかった創作手法が、今はある。時代様様。
ほどなくして、机の真ん中にはブラウン管が乗った。
吸い殻が山になった灰皿の他に何も置けず、みんながテレビみたいなものを間近で覗き込んでいる。どこも職場はそんな風景だった。
気が付けばモニターはどんどん薄くなり、再び、机の上が広くなった。
<2001年宇宙の旅>に出てきた、薄っぺらいモニターテレビを多くの人が持ち歩いている。
中世古代から未来へ。タイムマシンに乗ってるみたいだ。
世間は、あっけなく変わる。
働き始め、新しいゲームを作るということは、新しいゲームジャンルを作るのと同義であった。
文学や絵画、音楽、映像などを組み合わせて、操作できる新しい世界を作る。
今時分は、生まれる前からゲームなどあって当たり前のお客様を相手にしているのだから、奇異な新規ジャンルを模索するよりかは、みんなが慣れ親しんだシステムをコピぺする方が安全。広く理解も共感もしていただける。
誰しもが持っている今現在の嗜好は、誰しもが人生の節目節目で体験した、個人の感動の記憶によるところが大きいのだから、その感動の記憶が、幼少から多感な時期での”ゲーム体験”にあるのであれば、我々は作り手は素直にそれに倣うべきだ。
で、俺としても、過去売れたゲーム、人々に感動を与えたゲームを一生懸命まるパクリしているつもりなんだが、作ってくと、なんだかどんどん違ってくる。
模倣像がぼやけて、ついつい別のものに引っ張られる。
なんか、俺なりに懸命にやっているつもりの感動のコピペ、追体験している感動の記憶の元ネタ。には、致命的な偏りがあるのだろうね。
これもそういったコピペミスか、ほどなく勤め人はやめにして、野良に戻り、初めて捕った現場で、西澤龍一てな男に会った。そこの社長さん。紹介します。
次回は、彼のまっすぐ偏った面白おかしいハナシをぜひお楽しみに!!
ほなまた、ゲーム画面で。