少年時代
小生、宮城県仙台市生まれ。しかし、3歳までしかいなったから、生まれ育ったという記憶はない。
3歳から東京都国分寺市で、3兄弟(年子)の長男として、勉強なんてそっちのけで、遊びまわっていた。
小学校6年生当時、巨泉×前武ゲバゲバ90分!、ビートポップス:大橋巨泉が、テレビでやっていたが、当時、ビートポップスを見てる同級生は、いなかった。音楽中心の情報番組で、毎週土曜日午後2時から3時にかけてやってと思う。音楽は、チャート形式で、レコード及び海外音楽ビデオなどが、紹介されたいたが、巨泉さんの語りが面白くて、毎週楽しみにしていたのを憶えている。
6軒長屋といっていたが、平屋の家が、6軒あって、父の会社の社宅で暮していた隣に中学、高校生のお兄さんがいて、ビートポップスは、そのお兄さんが、教えてくれたのだ。
小学生の頃から本が好きで、怪盗リュパン(怪盗紳士リュパン (創元推理文庫:アルセーヌ・リュパン・シリーズ/モーリス・ルブランというは、後で調べた)、海底2万マイル、15少年漂流記:ジュール・ヴェルヌ、タイムマシン(H.Gウェルズ)を学校の図室で、借りて読んでいたことを憶えている。
父は、オモチャは、一切買ってくれなかったが、本だけは、買ってくれた。シートン動物記、ファーブル昆虫記が読みたいといったら、翌日買ってきれくたのは、驚いた。
父の蔵書の中に「楡家の人びと」があった。6年生で読む本ではないような気がするが、どうしても読みたくなって、読んだ。が、私の頭では、内容が理解できなかったが、何だか悔しくて、最後まで読んでしまった。
それからというもの中学生から今に至るまで、星新一、筒井康隆、北杜夫が、私の一番好きな作家になった。
最近では、ミステリーしか読まなくなったが、基本は、SFが大好きだ。
三菱ダイヤモンドサッカー
同級生は、野球に夢中になっていたが、小生は、なぜかサッカーに惹かれていた。まだサッカー人気がない日本で、海外のサッカーの試合を観ることができたのは、嬉しかった。
三菱ダイヤモンドサッカーも隣に住んでいた中学/高校生のお兄さんから教えてもらった。
実は、家には、白黒テレビしかなかった。しかし、父が突然、カラーテレビを買ったのだ。日立のカラーテレビだった。これには、驚いた。カラーテレビで、ビートポップス、ダイヤモンドサッカーが観れたのは、ラッキーだった。
中学/高校時代
小生、父の仕事の関係で、小学校6年生の夏に伊豆の熱川に引っ越したのであった。とても田舎で、夏は海で、泳いだり、魚釣りしたり、冬は、山で、クルミを取ったり、友だちのみかん畑に行って、みかんもらったり、いつ勉強してるのって。
近くに本屋がなかったので、父の蔵書の中から読めそうな作家を探しては、読んでいた。
夏目漱石、井伏鱒二、宮沢賢治なんだけど……読みたいと思っていた訳ではない。
ということで、中学校2年の夏にまたまた引越し。今度は、神奈川県相模原市で、中学2年からアスキーに入るまで過ごしていた。
高校生になるとサッカー部に所属。回りは、リーゼントの先輩、オールバックの先輩等、とっても恐かった。が、天性のアホさが幸いし、先輩に虐められることなく、無事に過ごすことに成功。
この頃は、北杜夫のドクトルまんぼう航海記なんかを読み始め、北杜夫の著書は、ほとんど読んでしまった。後は、筒井康孝、星新一の文庫本を片っ端から読んでいた。
実は、高校卒業後、浪人していたんだけど……父から2浪はダメだと言われ、父の勧めで、日本エディタースクールに入った。
アスキー出版
日本エディタースクールで、就職活動していたときのこと、アスキー出版(当時)の求人を見つけた。パソコン関係の書籍の編集の求人が載っていたのだ。
小生、なぜかこの求人に惹かれてしまった。今となっては、何で興味を持ったのか?さっぱり分らない。
パソコンなんてまったく興味無かったし、理系というよりは、文系よりの人間だったから。他の求人にはまったく見向きもせず、アスキー出版しか応募しなかった。
T副社長との面接
面接の日取りがきまり、南青山にあるハイトリオの下にあった喫茶店での面接だ。もちろん、スーツを着ていった。
そこに現れたのが、T副社長、ジーンズ、スニーカー、ポルシェの銀色のジャケット、手には、バイクのヘルメットを持っていたのを憶えている。
面接、履歴書の内容からいろいろ質問されるのかと思っていたが、「いつから来れる?」って、えっ、いきなりですか。そんなこと聞かれると思ってないから、「3月が修了なんで」って言ったら、「その前にバイトに来てよ」ってことで、20分ほど雑談して、面接終了。
面接後、編集部のあるマンションに連れていかれ、編集部の方たちを紹介され、そこでも「いつから来るの」って……そんなに人手不足なのかなと。
面接が終わった後、エディタースクールに合否のハガキを出してもらうことになっていて……いつまでもたってもハガキが来ない。
エディタースクールの事務局から、「田口くん、合否のハガキ来ないよ。落ちてたとしても次の面接受けられないよ」って、ことで、T副社長に電話。
「ごめん、ごめん、ハガキ失くしちゃって、合格だからって、事務局の人に伝えてよ」、と軽く言われてしまった。
ということで、1979年3月初旬頃に編集部のマンションにアルバイトとして、出勤することになった。
初出勤
一応、9時から18時までだからってことで、9時に出勤したのはいいが、マンションの鍵が開いてない。
誰もきてないの??仕方ないので、玄関の階段で座って待っていると、10時半頃に編集部の人がきたーー。と思ったら総務関係の人だった。
「どうしたの?」って、聞かれ、「今日からお世話になります。田口です」って言ったら、「何時に来たの?」ってことで、「9時にきました」って…..「そんな早くきても誰もいないよ」ってことで、9時から18時だって聞いたんだよこっちは、心の中で悪態ついたのを覚えている。
最初の仕事
小生が配属されたのは、書籍の編集部。立ち上がってからまだ1年足らず。編集部といっても小生含め3人だけ。
最初の仕事は、パソコンショーのための手提げバックのデザイン。多々、雑用をこなし、夕方からデザインにとりかかる。
「ASCIIのロゴを入れてー、使える色数は、1色か2色ねー。特色は、ダメかも。かっこいいデザインにしてね」。
えー、エディトリアルデザインは、習ったけど…指示ってそれだけですか??
手提げバックの大きさ、紙質を聞いて、さて、どうしよう。パソコンで、デザインできるはずもなく、手提げバックの大きさに合わせて、ロゴをコピー機で拡大して、いろいろやってたら、23時になっていた。
表参道から小田急相模原まで、1時間半はかかる。結局、何もできず、帰宅。翌日、出勤したらデザインができていた。T副社長が、1時間ほどで作ったらしい。
2人きりの書籍編集部
ASCII編集部が手狭になったため、別のマンションに移動することになった。書籍編集部が、T副社長と小生の2人になってしまった。
当時は、DTPなんてものはない。著者(もしくは、翻訳者)に原稿を起してもらって、編集作業後、写植をお願いして、版下を起し、印刷所に入稿。
青色校正(通称:アオ校)して、修正箇所を確認して、校了。
それをひとりで、3冊から4冊分(300ページから400ページの書籍)、担当してた。2週間に一度、アパート(その頃は、実家を出て、ひとり暮らし)に帰り、風呂に入って、着替えて、編集部に戻って、また、2週間後、アパートの戻って…あっ、着替えは、1週間分持っていって、コインランドリーで、洗濯してたから、下着は、綺麗だった。編集部は、マンションだったので、3日に1度、シャワーを浴びていた。こんなことができたのは、22、23歳だったからね。
第一書籍編集部
数年後、単なる書籍編集部から第一書籍編集部となり、部員も10名ほどに。小生も次長になっていた。といっても単に古いからってことと、T副社長からの指示に”できません(ノーと言えない日本人の典型)”と言ったことがなかったことが、功を奏した(のかな)。
第一書籍は、PC-8001のBASICに関する教本とか、CP/Mハンドブックとか、初心者向けからマニアックな書籍等、いろいろ出版してた。この頃は、年間、30冊から50冊を越える書籍を出版していた。
また、アスキー出版から株式会社アスキーに変わって、出版だけでなく、ゲームソフトの開発、半導体事業、ソフトの流通と多岐に渡る事業を展開してた。
MSXマガジン創刊
アスキーが、新しいパソコンの共通規格:MSXを提唱することになった。パソコンの共通規格:MSXの発表後、T副社長から呼ばれた。「パソコンの共通規格を提唱するから、アスキーで、雑誌を出すよ」と言われた。
「編集長が決まったら、田口くんにいろいろ助けてもらうから」と、「了解しました!」ってことで、そこで話は、終わり。
誰が、編集長になるかなって、そのときは、他人事。誰が編集長になっても、どんな難題がきても協力できるから大丈夫なんて、思っていたのは、小生だけだった。
数日後、T副社長からお呼ばれ。「編集長、決まったよ」、「誰ですか?」、「田口くんだよ」、って、絶句したのを覚えている。
「いや、無理ですよ」と言ったのを覚えている。ここで、始めて、ノーと言ってしまった。間髪いれず、T副社長、「たぐっちゃん、断れないよね」と一言。
過去、T副社長と一緒に仕事をしてきたことで、小生の性格を良く知っているT副社長は、小生の弱点を良くご存知で。
「大丈夫、大丈夫、いろいろバックアップするからさ」ということで、編集長を引き受けることに。なんて、簡単に書いちゃったけど。
第一書籍に戻って、編集長を引き受けたことをみんなに言ったら、大ブーイング。
後日知ったことだが、T副社長が、編集長候補を人選し、面談をしたらしいが、ことごとく断られたらしい(あくまでも噂の話)。
雑誌の編集なんて…どうすりゃ良いのさ????????急遽、創刊準備室を作って、毎日、版型、ページ数、取材、印刷所、記事の内容、編集プロダクションをどうするのこうするのって、ミーティングが、毎日、深夜。
ところで、編プロって何?書籍の編集経験しかない小生にとって、編プロの存在なんて知らなかった。どうにか、南青山にあった小さな編集プロダクション、フリーの編集者の協力得ることができた。
創刊準備室は、2人で立ち上げた。実は、当時、社内で、募集したが、誰もMSXの雑誌編集部に来たいなんて奴は、いなかった
MSXマガジン編集部
小生、ベテラン編集者:2名、新入社員、アルバイト(後、社員に)の5名でスタート。
雑誌名、T副社長を含め、編集部全員で、考えた。あげく、「MSXマガジン」が一番シンプルで、分りやすいということで、命名。
ということで、MSXマガジンが船出したわけだが、雑誌創りにあるまじき行為を多々犯し、アスキーの他の編集部から批判された。
小生、まだ27歳と若かったので、批判されようが、陰で悪口いわれようが、一切気にしてなかった。
それにしても雑誌創りがこんなに楽しいなんて思ってなかった。雑誌創りのセオリーを知らなかったのが良かったのかな。最初、縦組み、中綴じ、その後、横組み、平綴じにして、なんて、パソコン誌って、縦組みダメだね、なんて、これは怒られるよね。
MSXマガジンの表紙
I氏との出会いは、MSXで表紙が描けないかなって?ことで、いろいろ考えてた時期。ある人からI氏を紹介された。
I氏は、当時、PC-100で、CGを制作していた。I氏は、ある青年誌のマンガの表紙を描いていて、野菜、くだものを擬人化し、エアーブラシで、表紙を描いていた。小生、度々その雑誌を買っていたので、良く憶えている。
I氏は、ユニークな人で、アイデア豊富、クリエーターとしての経験豊富、人格、明るく楽しく、会話も楽しく、表紙デザインの打ち合わせで、月に1~3回定期的にミーティングをしていたが、毎回話題が表紙から外れてしまい、気がつくと夜中の2時、3時が当たり前になっていた。
ある日、I氏から、「MSXで表紙が描きたいなー」と言われた。えっ、それは、嬉しんだけど……。
ということで、表紙を描くためにMSXを用意し、早速、描いてもらうことになった。が、なんと当時、デジタル製版なんてできない。印刷所と相談したら、印刷用のデータに変換してもらえれば、「こちらで、対応しますよ」って、ことで。
じゃー、学生に印刷用のデータに変換するためのソフトを作ってもらおうってことになって、MSXマガジン専用変換ソフトを作ってもらった。
これで万全じゃんってことで、I氏に表紙を描いてもらった。多分、MSXで、表紙を描いていたのは、MSXマガジンだけだと思う。
画素数なんて、今と比べたら粗いけど、雰囲気というか、何だろー、表情豊かな絵になっていると思う。
正直な話、他の雑誌と同じことをしたくないし、誰もやらないことをやってみたいという思いが、I氏に通じ、表紙が、他誌にはない、趣のある雑誌となったことが嬉しかった。
アルバイターの田口
校了が差し迫ったある日、編集部全員、校正マン、フリーの編集の人、総勢:8人ほどが、夜中の2時までかかってしまった。これで、印刷所に持って行けば終わり。
ってことで、小生が、印刷所まで校正を持っていくこととなった。
夜中2時過ぎなんで、印刷所の守衛さんに預けることになっていた。まぁ、いつものことなんで。
「すみません、校正届けに来ました。」
「おぉー、夜中までたいへんだな、アルバイトは」
「いやー、これでも編集長なんですよ。」
ってことで、守衛さんに校正と名刺を渡して、無事、校了。
翌日、編集部で、
「印刷所の守衛さんにアルバイトと間違えられちゃった」
「いつもポロシャツ、Gパンだからでしょ」
「そんな恰好、誰も編集長だなんて思わないっすよ」
ってことで、編集部全員からディスられた。
その翌日、印刷所の営業マンに
「校了届けたときに守衛さんにアルバイトと間違えられちゃった(笑)」
と軽く言ったのが間違いだった。
翌月の校了も夜中。今日も守衛さんに校了を預けて終了。
「すみません、校正届けに来ました。」
あれ、前と同じ守衛さんだ。
「前回は、申し訳ございませんでした。」っていきなり謝られた。
「えっ、何のこと??」
アルバイトと間違われたことなんて、すっかり忘れてた小生。だって、先月のことなんだから。
後日、営業マンに聞いたところ、「編集長をアルバイトと間違えるなんて…..」と守衛さんを怒ったとのこと。
守衛さんに申し訳ないことをしたと反省した小生でした。
その後の私
アスキーでは、色々なことを経験させてもらった。雑誌、書籍、映像制作、マネージメント(管理職)、マルチメディア・コンテンツの制作等。
ということで、自分の今があるのは、アスキーでの貴重な経験があるからだと思ってる。
アスキー時代からいろいろやってきましたが、今は、4K8K映像制作編集向けワークステーションの企画を担当中。
これまで、書籍、雑誌、ゲーム、システム開発等やってきましたが、この年になって初めてハードウェアの仕様を考えたり、マーケティングやったりしています。
東京オリンピックに向けて、4K放送が始まったりと映像の世界が、高精細に突入していきます。これは、見逃せませんよ。
これからも元気に仕事と遊びに励みまーーーす。(田口 旬一)