みなさんは、あまりご存知ないかもしれませんが、ファミコンが生れた同じ1983年にアスキーの旗振りのもと、家電メーカーが集まってPCの統一規格「MSX」を発表しました。数年後の1987年に、アスキーから出ていた本家『MSX magazine』の後を追って徳間書店からMSXの専門誌『MSX・FAN』(1987/3/7~1993/2)が刊行されました。私は、これに携わって、編集長などをやってました。また同時に、『サターンFAN』『PCエンジンファン』『3DOマガジン』『DOS/V FAN』と、のちにアスキーから出版になる『ファミ通DC(ドリームキャス)』も編集担当をしていました。
さて、私の場合の幼少期は、当然ですがコンピュータなど身近にもなく、初めてコンピュータと接したのが中学生のとき。毎日新聞で中学生を対象に募集していた3日間ほどのセミナーで、プログラミング体験できるというもの。両国にあった(と思う)学校にあった大型コンピュータを使って、FORTRANでプログラムを組み、自分でパンチカードに穴を開け、読み込んで出力させるというものでした。問題はそんなに難しいものではなく、都立の入試問題の簡単なものをコンピュータに解かす、というところがミソだったのでしょうね。
いま思えば貴重な体験です。それから大学でもまだ大型コンピュータをみんなで使う時代。在学中にようやくテキサス・インスツルメンツのTI-99/4や、NECのTK-80キットが出た感じです。
それから男女雇用均等法もない時代だったので、バイト情報誌を見て、工学社で編集の仕事に就きました。FM-8が全盛で、7が出る頃でしたね。工学社では、おもに書籍(マシン語やプログラム電卓の本)を担当してました。
この時代は、『マイコン』(電波新聞社)、トラ技こと『トランジスタ技術』(CQ出版)、『I/O』が三大PC雑誌で、広告が大量に入るので、雑誌なのに自立(立つ)する、と言って笑ってました。おおらかな時代でしたね。とにかくPCの業界が上り調子だったわけで、何回か主だったメンバーでスピンアウトが起こるのです。それで、私も入ったばかりだったのに、先輩に誘われていっしょに出てしまいました。
で、今ではアスキーの人も知らない、アスキーの子会社に行くのですが、ここもまた……。という激動を経て(というか時代は重なって、だいぶ同時進行なのですが)、秋葉原のラジ館の中の富士音響でAppleを知り、ついでにABC(Apple Bugs Club)というサークルと出会うのですね。ここで、Appleのゲームが楽しくなって(もっぱら単純なChoplifterとかデカスロンとかですが)、コンプティーク編集部に入ることになるのでした。
そうそう『Lode Runner』も大好きで、よくやりました。Appleで出た最初のバージョンやのちのファミコン版でなんとなく日本ぽいのや難しいやつは、ABCのメンツが作ったものもあります。懐かしいな、みんなどうしているだろう。
(このあたりの数年がとても濃い時代で、MSXのモックを見る機会があったり、M5でのソフト開発していたのを見たり、ビル・ゲイツが西さんと会っているところにいたり……と、いろいろ、します)
さて、コンプティークで、読者の投稿や、質問電話などを受けているうちに、ファミコン以外のゲームファンは、情報を得るところがないのだと気が付きました。そんなおり、さらに私は引っ張られて小さい出版社で、セガとMSXの攻略本を編集します。ウルトラマンで有名な成田亨先生に描いてもらった『モンスター大図鑑』もここで作ったものです。(成田先生とモンスターの話をしたときのことは、また機会あればお伝えしたいですね)
そして編集プロダクションの忘年会で、知り合った徳間の人から『MSX・FAN』の創刊メンバーとして呼ばれ、しばらくして編集長をさせていただくことになるのです。
創刊号の巻末
この頃は、空前のファミコンブームで、家電メーカーも黙ってない、という感じでしたよね。いきなり低価格のMSXを出したので、それもあって、第二のファミコン的な位置になるMSXの雑誌の創刊が考え出されたわけです。ただ、MSXにはゲームだけじゃない面もあって、アマチュアレベルでのプログラミングの楽しさを体験できるマシンで、専用のモニターが必要ではなく、テレビに繋がるところは、とてもハードルが低かったと思います。家電メーカーとしては、テレビにつながることが大事だったわけですが、私たちにとって手軽な入門コンピュータでしたね。
私は、単純で楽しいAppleのゲームも、黎明期のビジネスソフト(将来はexcelの原型となるVisiCalc)も大好きで、コンピュータの変幻自在ぶりが面白くて、MSXにもそんな魅力を感じてました。それを最大限に伝えたいと、思ったのです。もちろん発案者で初代編集長には、アマチュア無線時代の経験もあり、新しい物作りの楽しさを伝えること、それを経験して、さらなる次世代を担ってくれること、それは秘めたる思いのように共通していましたので、しゅくしゅくと雑誌を作って行くことになりました。
それは最後まで貫いたことで、いまでもその思いはあります。
ゲームについていえば、MSXではコナミの存在が圧倒的で、最初から引っ張ってくれたと思います。『けっきょく南極大冒険』、そして『グラディウス』『劇ペナ(THEプロ野球 激突ペナントレース)』『悪魔城ドラキュラ』『メタルギア』……。私は制作していたスタッフも含めて大好きでした。
ほかにもMSXでは外せないコンパイルの『ディスクステーション』、『ザナック』もありましたよね。名古屋と三重の2つのメーカー、T&Eソフトとマイクロキャビン、語り始めたら切りがありません。
私は自分ではあまりプレイをしない(してられない、下手、というのも含む)ので、ゲーム自身に強い思い入れはないかもしれません。それでも、編集部の中が常ににぎやかで、メーカーの人も、昼夜関係なく訪ねて来てくださったり、開発苦労話や、相談事、ありとあらゆる話をしたものです。
本当に、MSXに限らずですが、ゲームを取りまく人や、出来事やものには、とてもいっぱい思い出があります。いっしょにイベントをやったことのある松下電器産業(今はPanasonicですよね)は特に何度もオフィスのある門真にお邪魔して、勝手知ったる感じでしたし、それぞれのメーカーさんとは人として接していただいてました。ビジネスライクな表面上のお付き合いではなかったので、それはMSXそのものの雰囲気にもあったのではないかと思います。メールのない、電話か面と向かってのおつきあいするしかない時代だったというのもあるかもしれませんが、こういう人付き合いは今も大切にしています。いま思えば、名だたる家電メーカーが集まってすすめられた企画ですから、それぞれの会社の社内慣例を超えて行くのは、それぞれ大変だったと思います。新しいことは、普通のエネルギーの掛け方だけでは無理ですから。『プロジェクトX』という番組が何本も作れそうな秘話はいっぱいなんですけど……。
16ビットの技がそろった!A1GT
さて、もう少しだけMSXの話をしておきますね。新製品、新規格としてMSXも2になり、turboになって行くのですが、そうそうメーカーが思うほど売れなくなって来て、ソフトも減り、実質のユーザー数も減り、雑誌も部数が減って行きました。ある意味、ハードとしては、ソフトを作る開発側もいろいろ分かって来て、個人的には可能性が広がって来て、円熟した感じがしたのですが、世間は厳しく、次世代の話も水面下で進んでいたものの……。そしてついには、ハードメーカーが生産を中止、あとは発売予定のソフトを待つだけのハードになってしまいました。
雑誌としては、苦しくなって来ました。会社的に部数の維持もそうですが、みなさんに何が提供できるだろうか、ということです。フロッピィディスクの普及や、本作りの工程でディスクを付録に付けられるようになったこと、流通もOKを出してくれたこと、などのタイミングで、付録ディスクを付けることになり、掲載したプログラムも収録して提供できるようにしました。ゲームを待ち望んでいた人にも、遊んでもらいたかったですしね。
ディスクには、雑誌の弟分のようにマガジン形式にしました。毎号、同じような構成になるので、システム面でも中身を入れ替えて流用しやすく、編集部のメンバーがテキストレベルで変更もしやすいようにしました。今ではなんていうのでしょうかね、当時で言うところの簡易言語式です。雑誌なので、単価が安いものなので、開発費を捻出するのが、大変で、最初の号に開発費の費用負担を乗せると本がものすごい赤字になるので、分割にしました。プログラマーには申し訳なかったです。
のちにこのマガジン形式のツールは読者のみなさんに解放することになるのですが、最初は思いもよらなかったことです。
そして、ディスクには、古いゲームを無償でいただいて収録していました。このとき、いろんなソフトハウスの方々にはずいぶんお世話になりました。快く提供くださって、本当に雑誌もそうですが、MSXのユーザーにとってもありがたいことでした。雑誌の最後まで付き合ってくださったハード、ソフトメーカー、読者の方々には本当に感謝しかありません。
ハードの生産中止で広告を出す必要のなかったときにも、表4に広告を入れてくださったことも前代未聞……!!
こうやって書いているうちに、いろんな人の顔が浮かんできます。みなさま、お元気でしょうか。アスキーでMSX推進の現場をずっと携わって来た松田辰夫さんが2015年他界されたのが残念でなりません。
そして、その後、セガや3DOの雑誌をやることになりますが、どれも「ゲーム」オンリーでは、くくれないマシンなんですよね。そういうのは嫌いじゃなくて、作り手の心もちょっとくすぐってくれるところが、私には性にあっていたのだと思います。
まだまだお話したいことも、墓場まで持っていくぞ、と決めたことも、いっぱいですが、このへんにしておきますね。
北根紀子