目次
最後にやってきたゲーム史研究家こと「ぜくう」氏登場 前編
1作目からして愛情が溢れすぎる名著”ビデオゲームクロニクル ①奇々怪界”や各種インタビューを大ボリューム・オムニバスで収録した”テレビゲーム綺譚(きたん)”、そして新作はキャノンダンサー、ノスタルジア 1907、チャタンヤラクーシャンク等で有名な”転清(うたた・きよし)・アート・ドット・ワークス【アートワーク編】”等を刊行した最後にやってきたゲーム史研究家こと「ゲー夢エリア51」 の「ぜくう」氏。大ボリュームの資料群とそして衰えない情熱で常に足で稼いできたオリジナリティの高い情報を収集するそのパワーの源は一体どこから来るのか?ゲーム史研究というテーマは一体どの様な資料を元に作られているのか?普段は各種メーカー・クリエイターにインタビューしている彼だが、今回 BEEPmag.では逆にその熱い男その人にスポットライトをあてました。今回は大ボリュームにてお届けします! (B) 場所:埼玉マイコンセンター 聞き手:BEEP
実は今回、無理やりインタビューさせていただいたのである。ぜくう氏のモットーとして、ゲームクリエイター等へは最高のリスペクトをもって接しているが、当の本人はあくまで裏方である。そして目立ってしまうような事は(このようなサイトでも)謹んであくまでも、その労力やリソースがあればクリエイター達に光をあてるべきなんだ!という事です。しかし、今回のインタビューオファーに少なからず今後のゲーム史へ残せるものがあると説得を続け・・今回登場になったわけである。では以下インタビューお楽しみ下さい!(B)
意外?と普通な子供時代
–ぜくうさんとゲームの出会いを教えて下さい。
物心付く前からゲーム&ウォッチが家にいくつかありました。父も母もゲームをやらないんで4つ上の兄貴に買ったのかどうなのか、とにかく小さい時からゲーム&ウォッチで遊んでいましたね。勿論リアルタイムでも買ってもらいました。
–当然のようにファミコンにはハマッたと。
ファミコン戦士でしたね(笑)。私が買った頃はカセットのラベルは線が入ってるヤツで、四角ボタンのファミコンでした。勿論野球とかサッカーとかアウトドアの遊びもしたし、秘密基地も作りましたけど(笑)、ファミコンが出たててでしたので、もう遊びの中心はファミコンでした。それは私に限らず周りが全部そうでしたね。友達の家でアトランチスの謎のマップを書きながら攻略したり、みんなでドラクエのレベル上げをやったり、あの時代の標準的な少年時代を過ごしたと思います。
–ファミコンは本当に大ブームになりましたね。
ゲームショップもたくさん出来たし、デパートとか百貨店行ってもおもちゃ売り場はもうファミコン!という感じでしたよね(笑)。ガラスケースに入っているファミコンのパッケージ群は本当に神々しい輝きを放っていたと思います。小学生だった私にはあの箱には何か特別な力が宿っているという気配すら感じさせました。それでもあんまり買って貰える環境でも無かったので、誕生日とかクリスマスとか正月とか。友達とのカセット交換を主に遊んでいたのでプレイ出来なかった作品も多く、この当時にプレイしたかったなと思えるソフトも少なくありません。
– ファミコンで思い入れのある作品と言うと何ですか?
意外と思うかもしれませんが、一番好きなゲームはソロモンの鍵です。これはもうゲームも面白かったんですけど、ゲーム全体の雰囲気やサウンドが神懸かってて、ソロモンの鍵はゲーム自体が遺跡の遺物のような雰囲気をかもし出していました。アーケード版よりもファミコン版の方が好きです。あとはコナミのファミコン作品はほぼ例外なく好きでした。ドラキュラとか魂斗羅、アルマナの奇跡みたいなハード路線も好きでしたが、真っ青な少年が冒険を経て、思いを寄せる少女を救出するといったエスパードリームや愛戦士ニコルといったアクションゲーム系、グラディウスに始まる一連のシューティングも大好きでした。とにかくファミコンのコナミ系は無条件に殆どやってて殆ど好きな感じです。これも意外と思われるかもしれませんがアドベンチャーゲームも結構好きでサン電子のリップルアイランドに影響を受けています。高校時代に部活で同人誌というかゲームの小冊子を作ってるんですけど、そこでレビューも書いてるんですよ。多分ユーズドゲームズでリップルが取り上げられる前だったと思うんですけど、何かその後急にメジャーになって攻略本やマンガにプレミアが付いてビックリしました。あの時代のファミコン作品はプレイしたゲーム全てに思い出と思い入れがありどれが好きと絞れませんね。
– この頃で思い入れのあるアーケード作品と言うと何がありますか?
やっぱりバブルボブルと源平討魔伝ですね。両方とも最も好きなゲームの一つで、バブルボブルは駄菓子屋に良く置いてあって、もう探してでもプレイしてました。遠出した時でも探すぐらい好きでしたね。当時デパートの屋上でもゲームコーナーでも何処でも絶対にバブルボブルはありました。でも結局小学生時代はクリア出来なくて、それは今でも悔しい思い出です・・。源平討魔伝はもう世界観とサウンドに痺れたゲームでコレは本当に衝撃を受けました。結構ゲーセンとかで「開発者が呪い死んだらしい」とか「琵琶法師を倒すことが出来るらしい」とか、ウソかホントか解らない話が聞こえて来るんですよ。だから自分は呪われたらヤだなって思ってました。掃除の時間にホウキを持って必殺旋風剣イヤァァアアッのマネとかしてましたね。高校生の時たまたまゲームショーの会場で作曲者の中潟憲雄さんと話をする機会があって、当時Kazeに在籍していた中潟さんに「君は詳しいし面白いから会社に遊びに来て!」って名刺貰ったこともあるんですよ。「今ね格闘ゲームを作ってるんだ!」とかって話をされて、結局それは恐れ多くてご連絡出来なかったのですけど、今もその時の名刺は大切に保管しています。ちなみにその格闘ゲームは後にPSの仮面ライダーだったと解りました。この頃のアーケード作品もハングオン・スペハリ・ワンダーボーイ・奇々怪界・・出てたゲームは殆ど好きで絞れません。
–その頃からもうゲームに対して特別な情熱があったんですか?
いや周りがみんなそうだったと思うんですよ。もう寝ても覚めてもファミコンみたいな空気があったと思います。第二次ファミコンブームとか歴史に伝えられる以上に熱気があったと思いますね。で、PCエンジンが出て、メガドライブが出てみたいな展開は本当に熱かったと思います。PCエンジンは発売日に学校から帰ったらランドセル放っぽってダッシュで最寄のおもちゃ屋にゲーム画面を見に行きました。その時に写真取ってる中学生ぐらいの人が居て、何か歴史的瞬間に立ちあってる高揚感がありましたね。今もですがその頃から他の人があまり気にもかけないようなことに興味を抱く性分で、そうしたものの中の一つにテレビゲームがあって、まぁ随分熱心にテレビゲームは追いかけていた少年だったと思います。
(-PCエンジンに関して言えば、何故か度を超えたゲーム好きの人は必ず、セガや任天堂ではなくこの、PCエンジンをフェイバリットに挙げている事が多い。私の廻りだけでしょうか。 BEEP )
アーケードゲームとの出会い
–ゲームセンターには行っていたんですか?
小学生時代はゲーセンに憧れはしましたけど、やっぱり年齢的にはデパートの屋上とか駄菓子屋が主戦場でした(苦笑)。それでもゲーセンにも隠れて行ってて、お金なんか全然持ってないのでデモ画面を延々と見ていたりしました。今考えるとハタ迷惑なガキだったと思います。しかも、結構PTAとかが巡回してるんですよ(苦笑)。で捕まって「何処の学校?」とか尋問受けると隣の小学校の名前を答えてました(苦笑)。それは小学生時代にゲーセンに行った人ならみんなやった手だと思うんですけどね…。ゲーセンもですけどソフトも余り買える環境では無いですから、兄弟で少ない小遣いを協力してゲーム雑誌買ったり、親に買ってもらったりすることで気を紛らわすというか、異常に雑誌を読み込んでいました。高校生ぐらいになるまで何回かに分けてゲームのチラシやグッズを捨てたことがあるんですが、ゲーム雑誌は思い出があり過ぎて、どんなに量が多くなっても捨てることは出来ませんでした…。
(-現在、オークションの落札価格を見ていてもゲーム雑誌の高騰ぶりは凄まじい。やはり、時代の空気間を特に真空パックされている雑誌の魅力というのは他には代えがたい魅力である。 BEEP)
–子供時代ってお小遣いのやり繰りが大変ですよね。
大変でしたね。小学生時代は毎週百円とかで、千円あれば駄菓子屋で豪遊出来るって時代ですから(笑)。ストⅡが小学校を卒業する頃に出るんですけど、収入が上がった中学時代のお小遣いは殆どストⅡに消えました(苦笑)。もう凄いゲームセンターが華やいでた頃で、薄暗いゲームセンターもまだまだ残ってましたが、とにかく熱気が凄かったです。残念ながら私は18時前にはゲーセンを出ないとダメだったのですが、対戦して知り合ったお兄さんに夜のゲーセンの伝説を聞いたりして夢と希望を膨らましていました。この時代のゲーム雑誌はまぶし過ぎて今読んでも涙腺がゆるみます。
–家庭用もストⅡを遊んでたという時代でしょうか?
そうですね。友達と遊んでたのはスーファミのもそうですし、PCエンジンで出たダッシュもかなりやってました。後はメガドラのぷよぷよですか。そんなんばっかやってた記憶がありますね(笑)。
高校時代へ
–高校に行ってもゲーム三昧だったんですか?
私は中学生ぐらいの頃からアニメやマンガ、ゲームとか諸々の歴史に興味を持って少しずつ勉強していたんですけど、高校は男子校に入って、図書委員になるんですけど、2年生の時に新しく司書教諭で赴任して来た先生が大変面白い方で、その先生と子供の文化を研究する部活を作ろうって盛り上がって、児童文化研究部という部活を作ったんです。そこで私はゲーム研究班の班長をやってて、学園祭で同人誌というか研究小冊子を作って配布していました(笑)。昔のゲームマニアがゲームサークルやファンジンを作っていた流れとまんま同じですよね(苦笑)。ちなみにその先生は漫談とかの研究をやってて、図書室で漫談とかやってました。殆ど夕方まで残ってたと思うので、充実の高校生活を過ごせたと思いますね。パソコン部も入っていたんですが、そっちも遊ぶ用という感じで先輩とかとゲームの話ばっかしてた気がします(苦笑)。
–-学園祭で配布した研究小冊子というのは?
まぁホントにホッチキスで止めたようなヤツですよね。みんなで原稿を書いて、それをワープロで打ってくれる奴が居て、絵を描ける奴がイラストを描いてみたいな。私は小学生の時からCSGとかおもちゃショーとか行けるイベントごとは殆ど行ってて、高校生の時からCESAが出来てゲームショーが始まるんですけど、各メーカーの広報さんや開発者を見つけると、取材というかゲームの開発秘話を聞いてメモ取ったりしてました(苦笑)。そうしたメモで記事を作っていましたね。結構ざっくばらんに話て下さる方も多く、その頃から表に発表出来る情報とそうでない情報の取捨選択をやっていたように思います。当時セガの広報をやってた竹崎忠さんが大変可愛がって下さって、良くショーでは昼食をご一緒させて頂きました。食事の話題は如何に草の根活動でセガサターンを布教するかで盛り上がりましたが、それもあって私の高校のクラスでは圧倒的にプレステよりサターンを持ってる奴が多かったんですよ(笑)。
–既に現在に通じるスタイルが此頃確立されていたのが伺えます。さらりと一エピソードになっていますが、割ととんでもない行動力ですねこれは(笑)
そして大学時代へ
–高校を出た後は大学に行かれたんですか?
そうです。大学時代はゲーム熱が急激に冷えて来た頃で「あーもう自分のゲーム活動も終わりかな」なんて思ってました。その頃はバイトもしてて実入りが良かったので、少年時代買えなかったゲームをどんどん揃えて行こうと思ってました。又、同時期にエミュレーターというものがあると友人から教えられ、高校時代から作っていたゲーム制作スタッフリストも含めて、これは色々なことに研究転用出来るなと思っていました。この大学で初めてインターネットというものに触れるのですが、それまで自分が蓄積して来た知識を試すというわけじゃないんですけど、やっぱりゲームのHPとか掲示板とか見てる内に書き込みたくなって書き込んで、その中にゲーメストの読者コーナー・ゲーメストアイランドのお兄さんであった御旅屋さんのサイトがあって、喜び勇んで掲示板に書き込みを開始したんです。そこである方が「君は面白いね!」みたいにメールで声をかけて下さったんですよ。その方が初期のゲーメストスタッフということは解りましたが、その時のハンドルネームでは誰かは解らかったんです。でも鈴木さんという人であることだけは解っていました。ある時その方のメールのハンドルネームを書く所に間違って書かれたようですがGODって書いてあったんですよ。で「えっ!?GOD鈴木さんか!?」みたいな感じで「バレましたか」みたいな(笑)。そこからGODさんにスカウトして頂いて、関東の中央に居るマニアやスコアラー、業界の方々と知り合う機会を取り持って頂いたという感じです。それからの出会いは本当に驚きの連続でした。ゲーム雑誌の制作の裏側、伝説的ゲーマーたちの武勇伝、ゲーム制作秘話…。もう全てが新証言・新発見の連続で、本来そうした話はテレビゲームの歴史にとって重要であるべき筈なのに全く表に出ていなかったので、この頃から何時か本を出しますので取材させて下さいと色々な人に声をかけてました。
― エミュレーターと言えばぜくうさんはMAMEのリプレイサイトを運営されてましたよね。
そうです。ゲー夢エリア51というサークル名は元々このリプレイサイトの名前でした。その昔ゲーメストでゲームのアーカイブスを作れないか?という特集があってその中でゲームのプレイ内容も保存したいという議論がされていました。80年代中期からはゲームのビデオが市販されるようになるんですけど、映像にBGMだけ上から被せたような環境ビデオ的なものもあったりして満足の行く内容は少なかったように思います。なのでMAMEのリプレイ機能というのを知った時にゲームのプレイ映像を残すならコレしかないと思いました。勿論エミュレーターですから再現の問題はありますし、何より本物ではないのですけど、人々がレトロゲームのプレイ映像を振り返り、懐かしみ、楽しみ、次の世に伝えるべき英知と技術としてなら、この機能で十分こと足りると思いました。丁度その頃かつてのスタープレイヤーと知り合う機会も増えて来ていたのでお願いしてリプレイを録って頂いたりしました。現在はリプレイサイトとしては殆ど開店休業状態ですが、リプレイのいくつかは動画にしてニコニコ動画に投稿もしています。
【ニコニコ動画・ゲー夢エリア51マイリスト1】
【ニコニコ動画・ゲー夢エリア51マイリスト2】
【ニコニコ動画・ゲー夢エリア51マイリスト3】(研究考察同人誌連動)
そして大学卒業、様々な出会いが広がる
–大学を出た後というのは?
昔はゲーム業界に凄い憧れていた時期もあったんですけど、自分が考えるゲームと世間や業界や時の流行のゲーム像とのギャップがどんどん広がって来ていました。それはもう中学の頃からそうだったんですけど、何か違うなという感じで…。大学出た後はフリーターやったり、色々やってたんですけど、まぁモラトリアムですよね。今もそうかもですが(苦笑)。で、我が家には大学を出て家に居るなら、家賃としてお金を入れないといけないルールがあったんです。まぁそれは割と何処の家庭でもそうだと思うんですけど、結構あがいたんだけど懐が厳しくなる一方だったので、観念してサラリーマンになったんですね(苦笑)。でサラリーマンになったんですけど、勤務形態が肉体労働を伴うような仕事で24時間勤務とか33時間勤務とか当たり前みたいな感じで、日勤と夜勤と日勤がくっ付いてるとかしょっちゅう(苦笑)。それでも自分はお金要りませんと他の人よりは軽くしてもらってたんですけど、稼ぎたい奴が超過勤務やるというわけでもなく、職場人数の頭数が勤務に対してどう見ても足りないだろ的に駆り出されて、休憩時間は殆ど寝てました(苦笑)。そんな勤務時間が長い仕事なもんだから今度は実入りが凄く良くなっちゃって、ちょっと金銭感覚が麻痺した時もありましたね。当然、給料でゲームの資料も買ってて、何時か「いざ鎌倉という時が来る!」と思ってました。索漠とした繰り返される毎日に疑問を感じていた頃にネット上で奇々怪界の企画とキャラクターデザインを担当した藪崎久也さんと知り会う機会を得たんです。勿論藪崎さんはハンドルネームだったんですが、その当時ネット上にアップしていたイラストを見てすぐに藪崎さんだ!って気付きました。Beepには奇々怪界の開発者インタビューやイラストが掲載されていましたからね。
ついに同人誌の製作へ・・
–それで奇々怪界の同人誌を作ろうと思ったと。
処女作にして相当な大ボリューム、そして同人誌か?!と疑う様な貴重なインタビュー、資料の多さに目を引く奇々怪界本。
藪崎さんが公開されていた奇々怪界やオリジナルのイラストがとても可愛らしく、又、藪崎さんの人柄にも大変惹かれました。その時に開発裏話的なことも書かれていたんですけど、これをまとめられれば奇々怪界の開発秘話を残せるのではないか?と考えました。奇々怪界ってファンが多い作品だと思っていたんですが、全く検証されてないというか評価されてない作品だとも感じていたので…。それで、藪崎さんに奇々怪界の本を作らせて貰えませんか?と聞いたところ、是非やって欲しいという話だったんです。でまぁしっかりとした収入はあったんですけど、今の仕事していたら絶対にテレビゲームの歴史は残せないと感じていたんで、サラリーマンをキッパリ辞めて、奇々怪界の同人誌を作る決心をしました。丁度勤務地が異動になった頃で、大きな職場で人もたくさん居ましたし、辞めるタイミングとしては申し分なかったんです。奇々怪界の本はコピーしてホッチキスで止めてみたいな本でなく、ちゃんとしたオフセット本で、後世に奇々怪界を語れる同人誌にしたいと思っていました。でも当時はどうやって同人誌を作れば良いのか解らず、PDFという拡張子も良く分からないってぐらいに疎かったです(苦笑)。今振り返ってもこの時サラリーマン辞めた決断はその後の大きな分岐点になったと思いますね。
–どのように同人誌を作ろうと思ったんですか?
Googleで「同人誌の作り方」みたいに検索して調べる所から開始しました。フォトショップがあると作れるというのは解って来たんですが、凄い複雑なソフトらしいということで、それは自分には向かないなと思って、パーソナル編集長というソフトを購入しました。ヨドバシでポイント込みで購入したらメチャクチャ安くて不安もありましたが、それで勉強を開始したという感じです。奇々怪界本は1冊目ということで編集には色々不備はあったんですけど、どうにかこうにか完成したという感じでした。
–ビデオゲームクロニクル ① 奇々怪界は凄い評価の高い同人誌ですよね。
本当に作るのは大変でしたね。何しろ本当に右も左も解らない状態でしたから…。藪崎さんが小倉さんに連絡が付いたら藪崎が乗り気と伝えて欲しいと言われ、奇々怪界のサウンドを担当したOGRこと小倉久佳さんにもどうにかこうにか連絡を入れることが出来て取材が実現しました。タイトーに在籍されてる方には広報部を通して取材を申請しましたが、同人誌だから当人間でご自由にという判断が示されて、最終的には同窓会まで開いてしまいました。一応メーカーを通したインタビューもありましたが、この本はあくまでタイトー公認でなく、プライベートな時間に一ゲームファンが一ゲーム開発者に当時の話を聞いてまとめたみたいな感じになっているので、そこでの証言もタイトーの公式見解ではなく、当時のスタッフのゲーム昔話的に読んで頂ければと思います。本当にたくさんの幸運に恵まれた1冊だと思いますね。小夜ちゃんと七福神のお導きでした。
そして反響も大きかった 2作目へ
–2冊目となったテレビゲーム綺譚はインタビューのみの本ですが、こちらも評価の高い同人誌ですね。
2作目はインタビューオムニバス。皆大好き、ダライアスや黎明期のクラッシュローラーまで幅広い。
これはアルファ電子でクラッシュローラーを制作された山口さんや、N.H.システムでメルヘンメイズの後期企画にあたった中村さん、ダライアスのサウンドを担当した小倉さんにインタビューをした本なんですが、かなり反響があったので高い評価を受けたと思いますね。特に小倉さんへの初代ダライアス全楽曲インタビューとダライアスバーストへの提供楽曲Hello 31337へのインタビューは必見の出来だと思います。
さらに大ボリュームの3作目へ
–現在はどんな本を作っているんですか? (※このインタビューは発行前に行われたもので、現在は既刊です、好評発売中!BEEP)
新刊は転清(うたた・きよし)こと木榑孝さんのデザイナーとしての業績をまとめた本。転清・アート・ドット・ワークスです。これはゲーメストで活躍した後に業界へと進出した転さんのゲーム開発の足跡を追う画期的な研究書です。この本も作り込み過ぎてしまって、500ページぐらい行きそうだったので、アートワーク集250ページ・インタビュー集250ページで分けて出します(苦笑)。アートワーク編はキャノンダンサー・神仙伝・重力装甲メタルストーム・ココロン・ノスタルジア1907・聖鈴伝説リックル・ファンキージェット・チャタンヤラクーシャンクを取り上げていて必見ですよ。
して入魂のアートワーク編を刊行。貴重な原画からドット絵まで丁寧に網羅されている。
–ぜくうさんの本にはスペシャルサンクスがたくさん掲載されていますね。
私の本にはスペシャルサンクスという形で本の協力者を掲載させて頂いています。だから本は純粋に私一人の力で全てを作ったという訳ではないんです。掲載した方の多くが資料協力者で、全国に資料の協力者が居て、本を制作する時に○○をお持ちでありませんか? と言った感じで問い合わせて、使用用途を説明して、多くの場合はデジタル資料として協力して頂いています。勿論、協力してもらった資料は本や研究用途以外の使用はなく第三者への譲渡もありません。あくまでテレビゲームの開発史を記録するのみに使用する資料とし使わせてもらっています。
インタビュー後編 膨大な資料群、そしてゲーム文化についてへ続く。