自己紹介
どうも初めまして。近藤いなと申します。埼玉県は花の南部の伊奈町で、「スタジオ・シエスタ」というゲームサークルを運営している近藤だから「近藤いな」といいますが、こんなような書き出しで記事を書かせて頂いているのは、実は二度目でございます。前回となるEXTRA MAG.#3では、私たちシエスタメンバーが大昔に作ったSTGについての記事を書かせて頂いたのですが、今回はクリエイターの自叙伝的な内容ということで、私近藤がゲーム業界で過ごした半生につきまして、恐悦至極ながら少々語らせて頂ければと思っております。みなさまどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
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前回記事をお読みいただいていない方のために申し上げておきますと、私が代表を務める「スタジオ・シエスタ(以下シエスタ)」はいわゆるインディーズゲームのサークルで、2001年より伊奈町にて同人活動をスタートいたしました。それ以前となる1997年に、こちらも私によって設立された、とあるゲーム制作団体(屋号はヒミツ)の業務がいわゆる本業であり、シエスタの運営を支えていたのですが、大変ありがたいことにそちらのほうがわりと好調でたくさんのお仕事をさせて頂きまして、その後、人員の増強と業務の拡大に伴い、2012年に「株式会社ロケットエンジン(以下RE)」を設立、全業務を移行すると同時にシエスタもまた、同社のデジタルゲーム制作請負や、それに付帯する業務などの傍らで、オリジナルゲームブランドとしての役割を担ってゆくこととなったと、そういう次第で現在に至ります。昨今の代表作は「トラブル☆ウィッチーズシリーズ」や「ヴァルシュトレイの狂ひょう」といったSTGですが、そのあたりはウラ話も含めて後述させて頂きたいと思っていますので、今しばらくお付き合いいただければ幸いでございます。
「トラブル☆ウィッチーズ」お求め安い通常版も登場!
そんなこんなで私の説明へと移っていくわけですが、私は40すぎのおっさんで、仕事は本業も同人活動もゲームの制作しかしたことがなく、シエスタとREの両方において今現在、制作主任兼代表取締役を務めさせて頂いております。業種はメインがグラフィックで、ビジュアルデザインからポリゴンデータ製作、ドット絵まで一通り行いますが、ほかにも楽曲制作やサウンドエフェクト、シナリオや台本などのテキスト、企画と仕様作成全般、レベルデザイン、デバッグ、印刷物製作、営業、製造手配などなど、ゲーム制作におけるプログラム作業以外のことはほぼすべて行います。もちろん、シエスタ作品にもすべて関わっていますので、なんでも知っています。とはいえ別に社長一存の専制体制……ってわけではなく、これは単に貧乏暇なしの法則に基づいた結果に過ぎませんが、そのおかげで本当にいろんなことを楽しませて頂いておりますね。自分の好きなゲームを作りたい一心でこの業界に入ったのですから冥利に尽きると言えばそうですが、でもしんどいのも確かです。どういうものを作ったら人に喜んでもらえるか、それをどうやって実現するかと常に頭を悩ませては、自分の力量のなさに翻弄され続ける毎日だし、そうして苦心を重ねて作ったものが売れなければ生きていけませんからね。むしろ苦行に近いのかもしれません。趣味を仕事にする苦労なんて少し考えればわかることなんですけども、どうしてこんなことをしたいと思ったのか、そろそろそのあたりを振り返らせて頂きたいと思います。
趣味とゲームの遍歴
幼少のころの私は、絵を描いたり音楽を聴いたりするのが好きだったようです。テレビは一日一時間、といった厳格な家庭だったため、アニメやバラエティー番組よりも映画をよく観ていましたね。なぜか映画だけは許されたのです。また、外に出て遊ぶのも好きで、休みの日などは朝一で家を飛び出し、どこにでも行っちゃうような子供でした。習い事を週4で入れられ、よく脱走していました。そんなアクティブさが高じて見つけたオモシロスポットがスーパーのゲームコーナーで、小学低学年の時にはもう、ゲームセンターへ出入りしていましたね。自転車で行ける限りの範囲内で毎日のように足を運び、あらゆるタイトルを遊べる限りに遊びつくしています。ムーンクレスタ、ボスコニアン、ザクソン、タイムパイロットなどなど、タイトルを並べればキリがないですが、子供のころからやはり、STGばかりを遊んでいたと思います。83年には「アストロンベルト」という、いわゆるレーザーディスクゲームが登場し、もともとSFが大好物だった私はそこに、ゲームという文化の偉大な未来を感じられずにはいられませんでした。映画と見紛う美麗な映像と大音響。同年にはかの「ゼビウス」も登場しており、当然そちらのほうも遊んでおりましたが、私的に印象深いのはこのアストロンベルトのほうです。当時の友人の父親がパイオニアのレーザーディスク開発に携わっておりまして、私はなんと、このアストロンベルトを無限に遊ぶことができたから、というのも大きいです。そんな幸運にも恵まれた私はもうすっかりゲームの虜となり、日夜攻略のことで頭がいっぱいでした。アストロンベルトやドラゴンズ・レアに、これといった攻略があったかどうかは謎ですけども。その後もジャイラスやソンソン、スパルタンX、ドルアーガの塔、スターフォースなどなど、84年以降はどんどんタイトル数が増えていきます。中でも私は「ザビガ」と「B-Wings」にハマっており、その独自性に深い感銘を受けておりました。特にB-Wings(「B」は「BATTLE」の意)にはその名の通り「ウイング」という、自機の攻撃を強化する武器パーツが8種存在し、それらを取得することで様々な攻撃が可能になるのです。この当時、これほどいろいろな攻撃方法のあるSTGはなく、しかもそれらの使い分けが非常に重要な攻略性は非常に完成度の高いものでした。なにせ自機であるFX-1は、攻防においてSTG史上最弱といって過言ではない無力っぷり。取得すべきウイングを間違えれば死であるのはほかでもなく、上手な人のプレイを見ながら一生懸命、ノートに攻略を書き込んでおりました。この時の所感は間違いなく、今日私のSTG観の根底になっていると思います。
そんなこんなで迎えた85年は、私にとって特に重要です。横シューの革命児にして不朽の名作である、あの「グラディウス」が行きつけの駄菓子屋にも登場し、私は一目でその魅力に憑りつかれてしまいました。変幻万化のステージグラフィック、毎ステージごとに違う透き通るような楽曲、そして初めて見るオプションと長くてめちゃめちゃカッコいいレーザー! 宇宙ガマルゴトヤッテクル、というキャッチコピーのとおり、SFアニメがそのままSTGになったようなその作品性に驚愕し、遊び倒し、惚れ込んだ小6の夏、私はついに将来の夢をゲームクリエイターと定めるに至ったのです。このグラディウスとの出会いがなければ今ごろどうなっていたことか。……まあ同年はツインビー、ギャラクティックウォリアーズ(音楽サイコー!)、ファイナライザーと、バブルシステムの名作がまさに目白押しでしたからね、遅かれ早かれといったところなんでしょうけど、とにかく私のゲーム制作人生がここから始まったのは確かです。その数年後となる専門学生時代、憧れのコナミさんへの入社に臨んだ私は敢え無く落ち、悲しみに暮れましたけども。
ゲーム制作人生の第一歩
かくして中一の時にはもう、ゲームクリエイターになるつもりでいた私は、勉強もそこそこにゲーセン通いの毎日でした。やるとなるとかなり徹底的にやり通すのが、私の取り柄の一つでして、そのころはクラスでも一目を置かれるゲーム少年だったと思います。にもかかわらず、私の両親は非常に厳格で、なぜだかファミコンは買ってくれたものの、スターフォース以外のソフトを買ってくれません。友達から借りたとしても、テレビとゲームは合わせて一日一時間の条例がクリアへの道を強力に制限します。そういうわけでゲーセン通いの傾向がますます顕著になってゆくのも已む無しといったところですが、そのおかげで自分と同じ夢を持つ友達もでき、すぐに意気投合した彼と私の名はやがて、学校中にゲームバカコンビの異名をもって鳴ることとなりました。そしてそのゲームバカコンビは、それから30年が経った今でも健在で、一緒に仕事をしています。
さておき86年と言えば、STGは奇々怪々、SIDE ARMS、沙羅曼蛇、スラップファイト、ダライアス、ダーウィン4078、ファンタジーゾーンなど、ACTはアルゴスの戦士、源平討魔伝、戦いの挽歌、怒号層圏(STG?)、ローリングサンダーなどなどと、錚々たるタイトルが一堂に会し、その翌年にはR-TYPEやアフターバーナー、ストリートファイター(初代)などの名作も続々稼働します。まさにアーケードゲームの隆盛が始まったのです。業界の著しい発展をリアルタイムで体験できた私たちは実に幸運だったのだと思います。またCS方面では、ファミコンのドラクエⅡやⅢの歴史的大ヒットが社会をも巻き込んだ一大ムーブメントとなっており、それに伴って脚光を浴び始めた「ゲームクリエイター」という職業もまた、新たな花形として広く急速に世へ膾炙していきました。誰もがなんらかのテレビゲームにハマっており、学校はその話題で持ちきりとなって、時代はまさにゲームに席巻されていたように思います。バブル経済の全盛期ということもあり、わりとつまらないファミコンソフトでも出せば売れた夢のような時代です。一方で私と相棒はその頃から、自分たちのゲームを作ろうと躍起になっていました。夢をいち早く実現する方法はなにか。それは企画公募と持ち込みであると結論し、勉強もそっちのけで日夜、企画資料の製作に明け暮れました。グラディウス2の公募にも応募しましたし、かのゲーメストによるグラディウスⅢのアイデア公募では、相棒のアイデアのみ入選もしました。高校一年の時には同誌による「はねたまご」といった、オリジナルゲーム企画の公募もあり、私たちは応募するだけでは飽き足らず、アポも取らずに編集部にまで伺って企画仕様書を見せに行きましたね。今思えばなんと不躾で迷惑なハナシでしょう! とはいえこういったバイタリティがあったればこそ道は開けるもので、私たちはそのときはじめてゲームに関わるお仕事を拝見し、より決意を固めることができたのだと思います。ゲーメスト編集部へ行くために神田駅で降りたはいいものの途中で道に迷い、途方に暮れて入ったゲーセンで「Xマルチプライ」をプレイされていた石井ぜんじさんに出会えて事なきを得た、というのも良い思い出ですね、私たちにとっては。
後先になりましたが、高校入学時に相棒が68kこと「X68000」を購入したというのも、私たちにとっては運命的なことでした。相棒は家でACグラディウスを遊びたい一心(実際は完璧な移植とは言い難いのだが)だったそうですが、スプライトエディタを手に入れてからはドット絵を描いてばかりいましたね。ゲームソフトからグラフィックリソースを抽出し、スプライトエディタにて自分の好きな絵に書き換え、それをゲームに戻して遊ぶ。なんだかオリジナルのゲームを作っているようで楽しかったですね。買ってきたゲームを一通り遊んだら、次はあらゆるデータをのぞいてゲームの構造を把握し、作り変えてしまう。最後には動かなくなってしまうなんてこともしばしばでしたが、この時が人生において一番、技術的なことに勤勉だったような気がします。同時に企画だけではゲームは作れないことも知りました。実用的な制作論法と具体的な技術がなければ、どんなに良い企画も実現不可能です。当時はゲーム製作技術を教えてくれる人もおらず、ほとんどの知見は独学で得たものでしたが、そのかいあってか、就職後も方法論や技術でつまる、ということも特になかったです。
また、私が楽曲を制作し始めたのもこの68kがあったればこそです。中学のころ、MSX2のBASICで簡単な楽曲を作っていたことがあるので、きっとMMLでもできるだろう! と構えていたのですが、「ミュージックPRO68k」という作曲ツールを手に入れてみたら入力方法が譜面でして、これが実に捗りました。自作ゲーム企画のための楽曲を200曲くらいは作ったと思います。音色は「サウンドPRO68k」というFM音源エディタで作成しており、出る新譜はすべて買うほどのゲームミュージックマニアだったこともあって、好きな楽曲の音も含めて耳コピなんかをしていました。余談ですが、MDXでアレシスさんのスタークルーザーやナイトアームズを聞くとめちゃめちゃ勉強になりますよ。もはや周知のことと思いますが、68kのFMチップはヤマハのシンセサイザーDX-7と同じ「YM2151」で、本物のFMシンセサイザーなのです。しびれましたね。比較的難解な変調合成方式の仕組みはもちろん、ディレイやディチューンなどのトラック構成やミックスなど、自分なりのゲームミュージックの作り方(自分は未だ、ほかの音楽とは違うものと思っている)というのも、この時にほとんど固められたと思います。当時作っていたゲームのみならず、シエスタ作品の“オリジナル”タイトルの楽曲はすべて私が書いておりますので、よければ聞いてみてください!
そしてその後、有限会社アモルファスという会社から発売された68k用STGコンストラクション「シューティング68k」というソフトを手に入れた私たちは、同社とスポンサーが開催するSTGコンテストに応募して大賞を取り、労せずしてゲーム業界へ入ろうじゃないか! と画策するのですが、それについてはEXTRA MAG.#3に詳しく書かせて頂いているので、是非そちらをご覧いただければ幸いです!
そして業界へ
結論から申し上げますと、前述のSTGコンテストではきちんと大賞を取り、主催社からは賞金の50万円と、ツールの製作元であるアモルファスからの初仕事をゲットしました。1991年の秋、高校三年生にして私たちは念願の業界デビューを果たしたわけですが、ここでまたも厳格な両親のストップが入ります。大賞を取ったのは立派だが、だからといって将来ゲームなんかで食えるわけがない、もっとちゃんとした職に着けと、それはもう散々な言われようでした。ゲームクリエイターが花形であるというのはいわゆるゲームファンの間での常識であって、ゲーム制作という仕事の実態がまだ、一般的には大して周知していなかった当時の風潮としては、別に珍しくもないことでした。それでも私と相棒は、せっかく開けた門が閉じられるのを断じて許さず、反抗と説得を重ねた結果、卒業後、せめて専門学校に通いながらにしろ、という親の条件を飲み、初仕事へ臨むこととなりました。どんな困難にもめげずに立ち向かうバイタリティは、ゲーム制作の上でとても大事なのです! 業務内容はオリジナル横STGの制作で、ハードはFM TOWNSでした。業態はアモルファスから機材を借りて自宅にて制作を行い、週末のMTGで進捗報告をするといった感じで、月単位で賃金が支払われました。まさに夢に描いた理想の環境でオリジナルのSTGを作るわけですから、張り切らずにはいられませんでしたね。相棒の家に機材を並べ、そこを拠点に毎晩夜中までドットリソースを仕上げ、敵キャラの挙動やプログラム用の仕様書を作っておりました。ドットキャラと背景パーツなどが数千点にも及ぶ超大作で、デザイン学校に通いながらの制作は本当にしんどかったけど、でも辛くはなかったです。ちゃんと完成していたら、さぞかし良い作品となっていたことでしょう……。そう、この企画は結局、お蔵入りとなったのでした。原因は担当のプログラマーが逃げたこと。一度ならず二度までも。誠に遺憾ですが当時、こういう事案はどこにでもありましたね。その後、プラットホームをFM TOWNSマーティーに移して制作を再開しようという動きもあったけど、初代TOWNSをターゲットとしていた当該作ではメモリが圧倒的に足らずこれも断念。奮闘努力の甲斐もなく、私たちの業界初仕事は初めての挫折へと帰結したのでした。今でこそ、ドットリソースや楽曲を流用して、新たにこさえてみようかなあ、などとも思っておりますけど。
さりとてそれですべてが終わったわけでもなく、ゲーム制作と専門学校を両立していた二年間を過ごした後、私たちはそのままアモルファスへ入社、今度はスーファミのゲームなどの制作に関わっていきます。会社にはPCエンジンの開発機器「重箱システム」などもあり、CEというツールでドット絵をたくさん描きました。MacintoshのLC475などもありまして、私はそれで初めてフォトショップに触れましたね。よもや未だメインで使用するソフトになるとは思いもよりませんでしたけど。
社会人になってからは高三の時から続いた徹夜もなく、思えばその頃が一番平和で穏やかな環境であったように思います。委託された業務をこなすのにもコツはいりますけど、個人的にはオリジナルタイトルの制作よりははるかに楽ですね。しかしそんな時期も束の間、とある理由で私たちはアモルファスから、同社の大口顧客であった「データウエスト株式会社」の東京分室へ移籍します。DAPSなどで有名ですね。その頃はちょうど、次世代機と呼ばれていたSONYプレイステーションやセガサターンなどが一挙に発表されて業界全体が希望に満ちていた頃で、まだペーペーだった私たちもまた、そんな新たな開発環境にあれこれと胸を躍らせていたものです。移籍後、ちょっとした適正テストがありまして、ドットで好きなキャラを描けといった指令が来ました。私はそこでもアニメキャラの類ではなく、カリブの生んだマンボの神様ペレス・プラード(知らんでしょ!)をリアルに描いて見事グラフィックへと配属され、当時、大阪本社が制作していたプレイステーション用アクションゲーム(お蔵入りになったようです)のキャラグラフィックをしばらくの間、描いたりしておりました。その後、サイキックディテクティブシリーズの背景描きやキャラ塗りなども少し経験しましたが、私たちのいた東京分室の仕事はあくまでも次世代機のゲームソフト制作だったようで、古くからのソフトにはほとんど参加していません。
で、渡されたのがPC-FX。……あれ、ちがくね? とちょっとだけ思ったのは内緒のハナシですが、まあ一応次世代機の仲間だったし1600万色だったしバトルヒート好きだったしで仕事は頑張りました。「RETURN TO ZORK」の移植などは実に思い出深いですね。仕様書はおろか攻略本もないので、遊びながら仕様を起こすところからの作業です。ちょっとした間違いですぐ死んでしまう高難易度なもので、企画課のスタッフは半分ノイローゼみたいになってました。でもその甲斐あって全機種中、最も遊びやすいのではないかと思います。当時は完璧移植と思っていたけど、実は追えてない仕様が二個あります。見つけられた人はいるだろうか。その次は「キューティーハニーFX」でしたね。およそ2万枚のセルをスキャナで取り込んで動画にするという、大プロジェクトでした。企画自体は内製でイベントシナリオは外注だったのかな? ゲーム中グラフィックの概ねを描いたと思いますが、あのゲーム、脚本はシリアスなのに道中イベントがどれもぶっ飛んでて好きでしたね。遅刻の罰として私は、トイレイベントの「トイレの神様(アストラル島のどっかのトイレに何度か入るとでてくる)」という役で声優までやらされました。クレジットに名前だって出ています。はずかしい!
そして入社から二年後、ついに東京分室でもPSオリジナルタイトルのプロジェクトが始まりまして、これが実に大変でしたね。「ブレイブ・プローブ」というACRPGだったのですが、企画時のボリュームがとても大きく、グラフィック工数が異常に多くて非常に苦労しました。背景グラフィックも大変多かったのですが、ほぼ自分一人でドット打ってましたね。あまりの労苦を見兼ねた会社が助手の女の子をつけてくれましたが、泊まり込みにならないよう、むしろ守ってあげなきゃ! と思ってました。売上自体は鳴かず飛ばずだったワケですが、当時、出来ることをすべてやり切ったような感じで、非常に思い出深い作品です。
独立
データウエストでは「ああ、女神様」など他にもいくつかに関わったのですが、在籍4年目にもなりますと自分のやりたいことなどもあって、98年に退職しました。いわゆる独立というやつです。先述のブレイブ・プローブで、次世代機以降の開発では当たり前のこととなる巨大な仕様や工数の実現方法については学べていたし、場合によっては数万点にも及ぶドットキャラやチップリソースを、少人数で完成させる具体的な方法論も持っていたので、同年12月、ドットリソースを専門に請け負う団体(このときは個人事業だった)を設立、営業に奔走しました。当時はPS全盛期でお仕事の話はたくさんあったのですが、ゲーム制作規模の肥大化や複雑化に伴い、開発側にも一定の人員規模や高価な開発環境を要求され、私たちのような個人事業には厳しい状況であったと記憶しています。急激に技術だけが発展し、方法論の幅が追い付いていなかった感じがしました。それでも幸運なことに、業界の知り合いにあれこれ紹介してもらって、なんとかやっていける状況ではありました。特に思い出深い仕事といえば、ACの「ギガ・ウイング2」に協力させて頂いたことですね。開発元のタクミ・コーポレーションには週一程度にお邪魔させていただいていたのですが、よく社長室に呼ばれては東亜プラン時代のことのみならず、関連会社の裏話までよく聞かせて頂いていました。ここでその内容を言うのはやめておきますが、STG史上においても貴重な情報ばかりであったのは言うまでもありません。また、高校時代からの友人に紹介して頂いた「呉ソフトウェア工房」様には、事務所が近かったということもあり、大変お世話になっておりました。我々からすればもはやレジェンダリーである社長の呉さんはとても気さくなお方で、「ファーストクイーン・ザ・ニューワールド」や「ファーストクイーンⅠ(リメイク)」のグラフィックに協力させて頂いたのみならず、その後もなにかとお気遣いを頂き、本当に助けて頂きました。おかげさまで次第にお仕事のお声がけを頂くことが多くなりましたが、それでも時代は3D全盛で、ドット2Dのまとまったお仕事はなかなかなく、経営は大変でしたね。
そんなこんなで迎えた2001年。受託業務だけではなく、自分たちでなにかを作ってみようじゃないかと、同人ゲームサークル「スタジオ・シエスタ」が爆誕します。といってもすぐにそちらに専念できるはずもなく、本業の傍らでコツコツやっていくと、そういった方針で運営がスタートしました。当時のメンバーは私を含めて3人でしたが、私は基本的に本業のほうで立ちまわっており、当初は大して戦力になってないです。一作目は当時の代表の趣味でKeyの「AIR」を題材にした横STG「AIRRDAE(エアレイド)」を制作しましたが、これがまさかの大ヒット。方々で話題になりましてシエスタは一躍、壁サークルの仲間入りを果たします。これに手ごたえを感じた私たちは、続いて「AIRRDAE SUMMER」という、AIRRADEのアペンドディスクを制作・販売しましたが、こちらは価格が高いのと、発注担当のミスで1万本も余計に製造したこともあり、経営的にはかなりキツイ結末となりました。在庫リスクに直面している最中で税務署にも凸されましたね。ウチはバカ正直な会計で修正申告の必要もありませんでしたけど、一定額以上の売り上げを出すと目を付けられるというのは、どうやら本当だったようです。その後も「ぽけっとかのん&えあ(以下PKA)」という、見下ろし型4人同時対戦アクションゲームも作りました。シエスタメンバーは、AC「ぶたさん」が大好きだったのですが、これはそのリスペクトなんです。遊んで頂いた方ならおわかりかと思いますが、このゲームはアクション部分の作り込みだけではなくキャラクターの成長要素も組み込んでおり、ゲームボリュームはコンシューマータイトル並みかそれ以上で、開発には一年以上の期間を要しました。前述のAIRRDAEで味を占めていた私たちはこの頃、本業よりもこちらのほうに労力を傾けており、営業もロクにしていませんでしたので、すると当然出てくる金銭リソース不足は、私が外で肉体労働系の短期アルバイトをして補っていたこともあります。体力はあるほうと思いますが、やっぱり大変でしたね。苦労の甲斐あってこれも15,000本くらい出ましたが、それでもリクープができたくらいで大きな儲けなどは出ていません。儲け度外視でやっていたのは確かですが、それでもある程度の利益は見込めるよう開発体制をなんとかしないと、本業はおろか、シエスタの維持もできなくなってしまいます。世知辛いようですが、好き……だけではやっていけないのが仕事ですからね、もはや専業同人のようであった私たちは、作業を外注に回したり、人を雇い入れたりして生産性を高め、開発体制の拡充を図り始めました。この頃からシエスタ事務所は人の出入りが多くなり、なんだか会社っぽくなってまいります。
2004年からはうって変わって、本業の請負が多くなりました。ニンテンドーDSが発売され、ドットリソースの需要が急激に高まったのです。ここへきて、私たちの天下……というのは言い過ぎですが、実際、様々なメーカーさんや大手コンテンツホルダーからドットキャラや背景の依頼をたくさん頂くようになります。ガンダム系タイトルやアニメIPのゲームなど、多い時で年間20タイトルくらいの業務をこなしており、常に深刻な人員不足に悩まされておりました。ドット絵で緻密なアニメーションを組めるような人って、当時はなかなかいませんでしたね。なのに依頼単価が安く、期間も短いことが多くて、経営は結局、楽にはなりませんでした。工数見積もりを出して企画当初から関われる作品もありましたが、火消しといった意味合いでの飛び込みもけっこう多く、業務は楽しい反面で、不本意なことも多々ありました。弊社が依頼を完遂出来なかったことはありませんが、どういうわけか途中で連絡がつかなくなったクライアントを捜索したり、未払いの報酬を取り立てに行ったりと、業務トラブルも一通り経験しましたね。私の業界ずれが進んだのも、この頃だったのでしょうw
一方で、AIRRADEの最終作となる「AIRRADE―AIR―」のプロジェクトが進んでおりました。実はこれ、PKAが終った2003年夏から製作開始で、翌年7月には発売する予定だったのですが、出来が悪いと判断してそのバージョンを破棄し、もう一度一から作り直しました。これが最後だから悔いのないようにしたいと、私たちは本当に一生懸命作り、最終的にはまさにAIRRADEのとりを飾れるとてもいいものができたと思います。ですが制作費は当然のごとくかさみ、利益など出るはずもなく、私たちはそこでようやく、本業で稼いだお金が、同人ですべて溶けていることに気が付きました。これぞ冥利に尽きる! などと居直ったところで財政がよくなるはずもなく、しばらくは本業に専念することになります。その傍らで、相棒の2Gの子供のころからの夢であった「ソルジャーフォース」を3か月程度でひっそり制作、販売したところ、一瞬でバカ売れし、ネット界隈で物議をかもした挙句、権利元から発禁を喰らった、というのはここだけの秘密です。
オリジナルIPの制作
本業との両立が不安定ながらも、シエスタは2006年秋、「トラブル☆ウィッチーズ(以下TW)」の制作に入ります。二次創作ではないオリジナルのIPで、まずはPCで作って、その後、アーケードやコンシューマーにも参入していこう、というのは、企画当初からあった目的です。とある本業の打ち合わせで六本木に行っていた私と相棒はその帰り道、大宮の飲み屋で食事をしていたのですが、その時に相棒2Gが「グラディウスのような地形横シューが作りたい」と言ったのが事の発端です。ただその時は、コイツに作らせたらまんまグラディウスみたいなの作っちゃいそう……と思ったので、それならマジカル・チ○イスみたいなキャラクターもののIPにしよう、と伝えたところ、一気に話が膨らみました。2Gはマジカル・チェ○スも非常に好きだったのです。かくして翌日には概ねの企画書が出来上がり、すぐに制作が始まりました。オリジナルIPでしたので、キャラクターの設定や世界観から作っていかねばならず、制作は最初から円滑を欠いていたように思います。加えてグラフィックリソースや敵仕様も非常に多く、工期と費用は多大となることが初めから予想されていましたので、私はいつものように資金調達のための本業を担当する傍らで、楽曲とシナリオの作業を行うことになりました。果たして制作は難航を極め、内部トラブルをも乗り越えてようやく発売した2007年の夏、12,000本を超える発注を頂きましたが、当初の評判は正直、いまいちでしたね。
アップデートによる調整を重ねながらも、プロジェクトは次の段階に移行します。そう、「トラブル☆ウィッチーズAC(以下TWAC)」です。プラットホームはTYPE-Xと予め決めておりましたので、タイトーさんへ連絡をしたところ、いきなりの電話だったにもかかわらず快く対応して頂き、そのタイミングでアポイントまで決めて頂いたのをよく覚えています。当時、いろいろな業務でお世話になっていた冒険企画局さんにプログラムと窓口業務をお願いし、私たちはディレクションとAC化に際しての新規追加リソースを制作する、といった形で制作が開始しました。しかし翌2008年の9月に起きたリーマン・ショックによりゲーム業界は低迷の底へ達し、多くのディストリビューターやゲームセンターが次々と消えて行きました。当然TWACも売れる見込みが立たなくなり、状況は深刻でしたが、それでも私財を投じてなんとか完成させ、発売にこぎつけました。最終的に何代出たのか把握できておりませんが、これによりまたしてもシエスタは、窮地に立たされます。
そんなシエスタを支えたのはやはり本業で、2009年あたりからモバイルゲームの仕事が増えていきます。幸運なことに、当時は大手コンテンツホルダーからのご依頼が多く、タイトルは言えませんが、かなり大規模なMMOのグラフィックを中心に、何本かの業務を並行で行っておりました。このあたりの実績が、今日私たちの業務の土台となっております。さておき、TWAC発売後、その春のAOUショーにてご挨拶させて頂いたSNK様からX-BOX360への移植のご提案を頂きます。コンシューマー化はTW企画当初からの目的の一つであり、一も二もなく引き受けさせて頂いた私たちは、ACの時と同じ布陣で制作にあたることとなりました。移植に際して、実はPC版のプログラムはほとんど使用しておらず、360用にフルスクラッチをしております。タイトルも「トラブル☆ウィッチーズねぉ!」と決まり、新キャラ二人と、スコアアタックやボスラッシュモード、オンラインCo-opも追加し、さらTWACも内包した超お得な内容で非常に多くの好評を頂き、売れ行きもかなり良かったですね。
そしてこれを区切りにシエスタはしばらくの間、活動を休止します。理由は単純で、本業がとても忙しくなったからです。その頃からパチンコなどの7号関連業務が急速に発展し、多くのゲーム会社がそちらのほうへ活躍の場を移していきました。割と早い時期から、AEによる映像編集やエフェクト制作なども手掛けていた私たちも例外ではなく、2012年に本業の個人事業を法人に切り替え、「株式会社ロケットエンジン」を設立し、その後、ゲーム関係の仕事と七号関連業務の二本柱にて、忙しい毎日を送らせて頂いております。
そして今後
NDAの都合上、七号関連はあまり言えないので割愛しますが、ゲーム関連ではドットリソースやイラストなどを中心に、大手コンテンツホルダー様からのお仕事を中心に引き受けさせて頂いております。こっそり言いますと、ガンホーさんのタイトルではけっこうお仕事させて頂いておりますし、昨今で大きいものでは、MAGES.さんの「超銀河船団」のグラフィック全般も引き受けさせて頂きました。不景気の折でどこも内製化が進んでいると聞きますが、本当にありがたい限りです。
また、2015年からはシエスタの活動も再開し、TWに続くオリジナルIPとして「ヴァルシュトレイの狂ひょう」という、縦スクロールSTGを制作、STEAMにてリリースさせて頂きました。翌2016年11月には、TWのリブートである「トラブル☆ウィッチーズオリジン!」が続き、両作とも今もなお、好評配信中で、今後もいろいろ新たな展開を予定しております。もちろんこれら以外の企画も進行しており、2018年中には発表できるかと思っておりますので、どうぞご期待ください。
インターネットによるグローバル市場の急激な発展とそれに伴う活発さは、私たちメーカーにとって非常に魅力的ですが、商品数が爆発的に肥大化し、且つ、魅力的で完成度の高いものが日々、量産されている現状は、ちょっとやそっといいものを作ったところで売上を保証してくれるものではありません。市場が世界規模となって競合が多いぶん、ゲームの制作はここにきてより、難しくなってきているとも言えます。リサーチを繰り返し、多様化したニーズのなにを引き当てるか、という論法は大事なのですが、作ることさえもが身近になったインディーズゲームにおいては、制作者の強烈な個性や絶え間ない努力が特に重要なように思います。今やルール無用のゲーム業界ではなにがウケるのかなんてわからない。技術やセオリーよりも、制作者が誰よりも楽しんで作っていて、それをいかに共感してもらえるかのほうが大事なんだと思います。その点で言えば私たちシエスタも、負けてはいないと思っています。冒頭でも言いましたが、ゲームを作るのって難しいししんどい。なのにどうしてそんなことをしたいと思ったのかといえば、それは多くの人に楽しんで頂きたいからです。私たちはあらゆるゲームからいろんなことを学び、楽しませてもらった。次は私たちがそれを引継ぎ、ゲームという素晴らしい文化をより多くの人と共有したいからなのです。いや~、ゲームって、本当にいいもんですねえ! 私たちシエスタはこれからも面白いゲームを作っていくべく、頑張って参ります。少なくともヴァルシュトレイ2とTW2を作るまでは死ねない! と思っていますので、今後もぜひ、ご期待くださいね。
ここまで駆け足にてざっくりと自分を振り返って参りました。私は大企業にいたこともなく、自慢できるような実績も大してありませんが、虚仮の一念と言いますか、大変なことも多々あったけど、それでもくじけることなくずっとこの仕事をやって来られました。おかげさまで業界歴は今年で27年目となりますが、目下一番気になっているのは自分の健康ですね。今後もずっと続けて行きたいと思っていますし、そのために必要なのはやはり、健康なのでしょう。近年ようやくそんなふうに思うようになったというのが、自分的には一番の成長かもしれません。とはいえ仕事の忙しさに絆されるあまり、身体のことにはあまり手が回らないというのが事実ですが、他の方はどうしているのでしょうね? 今後はそっちのほうも気にかけつつ、できる限り頑張ってまいります。
そういうわけで、このへんで次の方を紹介させて頂きたいと思います。アモルファス時代から私をなにかと教え導いてくれた敬愛措くを能わぬ大先輩にして、江古田の生んだ伝説のプランナー「TKS」さんです! いやこのひと、マジで伝説持ってますのでどうかお楽しみに!
それでは最後までお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。ごきげんよう!